南からの贈り物7 バナナ
初めて庭でバナナの花が咲いたのは、屋久島に引っ越して二年目の十二月のことである。
屋久島に引っ越したのは、夫の田舎暮らしの、霜の降りない地で南国の果樹を育てたいという夢があったからだ。最初は東京近辺の房総や伊豆などを探していたが、一緒に暮らそうとしていた私の両親は考えを改めたので、私が思い切って島に行こうと提案した。小笠原などではなかなか土地が手に入りそうもない。それで沖縄だと難しいだろうか、それでは鹿児島の離島はどうだろうと見に行き、屋久島が気に入ってすぐに決めてしまった。
家が建って引っ越しをして、私はまだ少し仕事があるので一旦東京へ戻ってひと月程経って到着してみると、夫は庭仕事を始めていた。私の居ない間、新しい家と庭には、何やかやと近所の人が訪ねて来たそうである。お向かいのぽんかん畑のおじさん、飛魚漁の漁師さんの奥さん、通りの向こうの自動車修理工場の奥さんなど。どういう訳か、パソコン教室を開くのかと尋ねられたりしたそうだが、残念ながらその予定は無かったのだが。
夫の庭仕事は、まずは土を耕すところから。庭の土は硬かったのだ。土を耕すと大きな石が埋まってもいた。夫はその大きな石を持ち上げて、並べて花壇を作ったりした。小石もたくさん出てきて、こつこつと何日も何日もかけて、その小石で道も作った。地面が少し斜めになっている所などは、私も手伝って、地面を平らにしたりもした。
そうこうするうちに、バナナの苗をもらえることになって、庭に植えた。葉が茂るようになり、雨上がりの朝などには、その葉に水滴が溜ったりして、葉裏から透けて見えるのが美しかった。それが二年目に咲いたのである。
バナナの蕾は、濃い赤紫の苞に包まれていて、それが開くと、花は一列に並んでいた。蜜があるのだろう、蟻が来ていたりした。花の根元の子房が膨らんで、何列にもバナナが実ってゆく。青い房状となった実は重たそうだ。最初の頃は、どうしていいのかわからなくて、黄色く色付いたものから取っていったりしていたが、そのうち、青い房ごと収穫して、軒下に吊るせば良いことがわかった。何日かすると徐々に黄色く色付いていくのだった。
島バナナと言うのだそうだが、小さめなバナナで、甘いばかりではなく、程良い酸味があって、いかにも果物らしくて非常に美味しかった。いっぺんに食べきれない程の量だ。いつ収穫すれば良いか気にかけてくれたご近所に差し上げたり、自分たちで食べる分の多くは冷凍したりした。黄色く色付いた皮を剥いて、一本一本ラップに包んで冷凍庫に並べた。冷凍したバナナもアイスキャンディのようで美味しかった。
実のついた株はもう枯れてしまうので、それは夫が伐採した。その伐採した株を片付けるのも重たいので一苦労だった。伐採しても、どんどん地下茎を伸ばして新しい株が出て来るので、バナナを育てるのには、広めのスペースが必要だった。それで、バナナの生育に適した屋久島であったが、何処の家にもバナナがあるという訳では無かった。
バナナは芭蕉の仲間である。木ではなくて草なのだ。その葉は大きく魅力的である。庭にバナナの葉が茂っているというのは、なかなかいいものだった。
寝室にバナナの葉影島月夜 清子
夜には家の周りは真っ暗になったが、月明かりの晩には、大きなバナナの葉影が、眠りに着こうとする寝室の壁に映って、何とは無しに幻想的だった。何だか浮世離れした心地でもあった。
ぽんかん畑のおじさんも、飛魚漁の漁師さんの奥さんも、自動車修理工場の奥さんも、皆働き者だった。働き者の島の人々に混じって、夫も庭仕事に精を出し、私もたまに手伝って、庭は年々、姿を変えて行くのだった。
(『南からの贈り物7 バナナ』、
2016年11月5日発行、
季刊俳句同人誌「晶」18号に掲載)
後記)
もうこの話は20年近く前のこと。それから数年後、年々姿を変えて行った庭とも別れ、この地を離れまた新しい地に着き、そしてまた離れ今の地に居る。夫は日常では旅を好まない。でも私たちは長い旅に出ているようなものと夫は言う。
屋久島の庭でバナナが育ったこと、花が咲いたこと、実ったこと、味わったこと、やはり忘れられない一齣。
その後変わらないのは、結局は夫は、その地その地で果樹を植えて育てているということ。当地ではやはりなんと言っても柑橘類。
夫は毎朝、バナナともう一種類の果物を剥いてくれる。今では無論、輸入のバナナと国産の例えば今だったら柿とか。ちょっと不思議な取り合わせかもだが。
朝食の一品、バナナを考える時、今ではそこにある危うさが頭をよぎる。
そして、私たちの長い旅ももう後半に差し掛かっているのだろうが、この先、その形も変わって行くのかもしれない。そう思って、お腹に少し力を入れるこの大晦日、年の暮れである。