得意冷然、失意泰然
やや聞苦しい自慢話
インドネシア滞在7年目になった頃は、私のキャリアの中でも最も幸福な時期でした。
赴任するとき、「この会社を、誰か買いたい人が出てきたらなるべく高値で売って来て欲しい」とまで云われてやって来た駄目子会社のITS社は、日系合弁として最も成功した帝人の子会社、TIFICO社を売り上げ、利益で抜き去ってトップに躍り出ました。
直近の5年間は60ヶ月連続増収増益を達成していました。
そうなった理由は、いくつかあります。
1.TIFICO社がポリエステル・フィラメントおよびポリエステル綿の生産販売会社であったとき、当社はナイロン・フィラメントおよびポリエステル綿を 生産販売していました。
合成繊維の中でも最も利益率の高いポリエステル・フィラメントを何故かやっていないのです。
原料から出発して重合までしている訳ですから、わずかの追加投資でポリエステル綿に加えてフィラメントをやらない理由はありません。
本社に掛け合ってポリエステル・フィラメント事業をスタートさせました。
その頃、設備の更新時期に差し掛かっていた本社の三島工場の古い設備を移設することで追加投資額を抑えました。
インドネシアでは、中古機械による新設、増設は許可になりませんがこの国では色々有りで何とか許可を取り付けました。
折からポリエステル・フィラメントの加工糸織物が勃興期を迎えており幾らでも売れました。
2.ナイロンフィラメントは、衣料用および産業用の高強力ナイロン糸を作っていましたが、設備が老朽化してB級の製品が多く高いコストに悩まされていました。これを消化するために工場敷地内に工業用ミシン糸の会社を立ち上げました。
OST(オリエンタル・ソーイング・スレッド社)は北陸地方の日本一の工業用ミシン糸のメーカーとの合弁です。
社長の鈴木さんは年に一度はインドネシアに出張するほどのインドネシアファンで、ゴルフの腕はシングルです。
インドネシアに来ると、まずTIFICO社を訪問し、次に当社に来ます。
最初、当社には挨拶程度の付き合いでしたが、ウィークデイでも朝からゴルフ、その夜はナイトクラブで社長以下出席の大宴会というわけで接待にこれ努めました。
決め手になったのは、ゴルフに行くとき、当社の来客用ゴルフセットを使ってもらいましたが、本間ゴルフのフルセットが鈴木社長の技術にぴったりとフィットして、「日本に持って帰りたい」というほど気に入られたので、
「今後、このクラブは鈴木さん専用にして他の人には使わせません。いつでもインドネシアに来てゴルフをして下さい」
と宣言しました。ここから徐々に変わりはじめました。
北陸のご本社も含めて、原料調達は帝人から当社にシフトしてくれました。
私個人としても会社を退職後も一生涯お付き合いする関係が始まりました。
折しも、世界の運動靴メーカーは新しい工場立地を求めて、インドネシアに工場を作る動きがあり、工業用ミシン糸は、滑り出しから順調に売れていきました。
3.インドネシアルピアの切り下げ時に、日ごろお付き合いの華僑の情報で当社のグループ企業が全て無借金体制になるほど財務を改善したことはすでに書きました。
曇りのち晴
私が赴任してきたときに生活指導員をしていただいた黒田さんがある日こう云いいました。
「石井さん、そろそろ本社に帰らないと先はありませんよ」
確かに、私は本社の部長待遇にまで昇格していましたが、その先のキャリアは見えていませんでした。ここまで業績をあげたので輸出部か海外事業部の部長席に移籍することも可能と甘く考えていました。
ある日、上司の社長に呼ばれて、
「長い間、ご苦労さんでした日本に帰国する辞令が出ました。」
と告げられました。
「判りました、どこに帰ることになりますか?」
「食品包装フィルムメーカーの営業本部長です。」
「入社以来、繊維原料しかやってないのでプラスチックフィルム分野には全く自信は有りません。このまま退職してインドネシアで職を探すかも知れません。」
怒りで全身が震えました。
社長にも私の怒りはわかりました。
また本気で探せば、私の就職先は幾らでも見つかるに違いないことも判っていました。
翌週、本社の海外事業担当専務と私の輸出部時代の元上司がジャカルタ迄やってきました。
「石井君、君も悪い。ここまできたら誰か君を引き上げてくれる人を決めておかないといけなかったのだよ。」
なるほど、与えられた仕事について、全社員の中で私以上にうまく出来る人は無いだろうと云えるところまで、全身全霊で仕事に打ち込むだけでは不充分で、上司やトップマネジメントの中で私を引き上げてくれる人を決めて日ごろからしっかりゴマを擂っておくことがこの会社のルールなのでした、
当時、当社の社長は、
「仕事が出来るのは当たり前で気配りも併せて出来るようで無ければいけない」
とゴマすりを公然と奨励するような人でしたから今から何をしても手遅れということです。第一、「新年のご挨拶に家内帯同で田園調布のご自宅にお伺いして・・」などと考えても社長の自宅がどこにあるか全く知らないというレベルです。
7年間本社を離れている間に、「不振の子会社を再建する、石井君」というレッテルがべったり貼られていました。
スーッと覚めました。この会社でトップに登ることは有り得ないとわかりました。
後は生き方の問題です。
私は5万人ほどの全社員のなかで最も仕事の出来る社員であるという丈でかまわないと決めました。
どろどろした出世競争から距離を置いて、新しい子会社の経営再建に全力で取り組むことにしました。
7年間、髭を蓄えて来ましたが帰国前夜にきれいに剃りました。