怪人ガンさん再登場
それは20年ぶりの再会でした。30歳でモスクワ駐在員を卒業して、本社の輸出部に帰任しましたが、そのとき私のロシア語教師にして、当社の嘱託を務めていたガンさんとは別れました。その後風の便りに、当社の嘱託を辞して自由気ままなロシア語専門家として日本に帰国し、大阪で暮らしていることは分かっていました。
インドネシアから51歳で大阪府高槻市に本社のある包装フィルムの会社に帰ってきた私は、営業部隊の大阪事務所がある中ノ島の三井ビルに向かって歩いていました。
住友銀行本店の前まで来たとき、突然、
「あれ! 石井さん?!」
と声を掛けられました。
20年たっても寸分変わっていないガンさんが立っていました。
ガンさんと私が会えば、当然のように最寄の「堂島地下街」にある居酒屋に直行です。
ガンさんは、日本の警察が入手した手書きのロシア語文書の翻訳(ロシア人の手書き文書は崩し方が汚くて普通の日本人では読めない)、とか学術会議でテクニカルタームが難しくて通訳が居ないときなどにそこそこ高い通訳料をとって生活しているようでした。
それでもやはり飲み屋のお勘定は当然のように私の担当です。
今の私には、ロシアの裏側の面白い話は、所詮酒の席の話題に過ぎず、
「秘密警察のボイチェフスキーが平壌経由で日本に来るんだけど、一席設けて飲ましてやってくれませんか・・」
などと頼まれても、わずらわしいだけです。
少しずつ疎遠になり、私も本社に帰って、「快適な土木事業!?」担当経由、最後の子会社勤務がいずれも東京の事務所や千葉の工場になって、大阪在住のガンさんと付合う機会がほとんど無くなりました。
高名の木登り
58歳で最後の子会社出向を命じられた私は、千葉県浦安市にある本社と千葉県市原市にある工場を行ったり来たりしていました。今度は社長として赴任しました。社宅が舞浜のディズニーランドの前にあったので、健康のために舞浜駅と本社のある浦安駅の間の1駅分は歩いて通勤しました。
生産工場を抱えるケミカル会社の社長は、これまでといささか趣が違って、工場長、営業部長、総務部長などがそれぞれのルーティンをこなして私は報告を聞き月例の会議を司会し、月に一度工場の幹部社員を集めて「社長の安全講話」(工場の業務上災害を防ぐお説教)をするぐらいです。
工場長上がりの社長にとっては手馴れた仕事ですが、私は講話のネタに困りました。
追い詰められて、「枕草子の高名の木登り」を題材に話をしたりしました。
清少納言と「高名の木登り」(木登りの達人)が一緒に、若い人が高い木に登るのを見ていました。
高いところに上っている時には何も云わなかった達人が、「軒丈ほどの高さ」まで降りたときに始めて、「注意しなさい。」と声を掛けます。
清少納言が今頃になって注意するのかと聞くと、
「つまり高い木に登っているときには落ちたら死ぬので注意深く行動するが、軒丈ほどの高さに降りてきた時に気が緩むので一番危ない。」
と応えます。
当時宮廷随一の才媛であった清少納言は、この人が達人と云われている理由が分かったと感心します。
という枕草子の一節ですが、私なりにアレンジして、
「最も危険な職場で高い緊張感を持って行動するのは当然ですが、その後、仕事のしまい方、家に帰る途中の交通事故などが実は一番危険なのだ!」
といいました。これは意外に好評で、「やはり文科系の社長は云うことが一寸違う」と云われました。
ガンさんよりもっと怪人!
退屈な社長業にも慣れてきた頃、例によって突然、ガンさんは現れました。今度は舞浜の自宅まで押しかけてきました。
「いったい何なの?」
「石井さん!! 絶対二日酔いしない水があるんです。一緒に来てください。」
勿論そんな水があれば嬉しいけど、なにやらインチキくさいと思いました。
半信半疑で、東京郊外の飛鳥山にあるシマニシ科研株式会社に嶋西浅男社長を訪ねました。何でも、嶋西社長とガンさんは共に大阪大学の卒業生で、ガンさんは11年ほど後輩になるそうです。
社長は薬学部を卒業後は薬局経営、大洋漁業や住友商事の開発部門を渡り歩いて60歳で起業し、ミネラルの研究を続けているうちにある発見をして、福島県田村郡の山奥に工場を建設したところでした。
事務所は古ぼけた平屋建ての一軒屋でした。
社屋(事務所?)に入ると、いきなり150リットルほどの大きな水槽が10個ほど目に飛び込んできます。良く見ると、大きな鯛が1匹、又は、小型の鮭が10匹ほど、金魚が100匹ほどごちゃごちゃとそれぞれの水槽に入っていました。海水魚あり淡水魚ありと色々です。水槽は一つ一つが照明に照らされて薄暗い室内に際立っていました。
嶋西社長が動くと魚は一斉にそちらの方に向きを変えます。
向き直った社長が、やや得意げに
「普通の水の中で100匹の金魚を買えば3日持たないで死にますが、この水の中では海水魚も淡水魚も生き続けます。酸素が活性化しているのです。」
といいました。
私は異次元の世界の入り口のような薄暗い事務所に立ち尽くして、きらきら光る水槽に見入っていました。