Kのこと 5
Kとの関係に少し進展があったので書きたい。
先日、両親にKを紹介した。
まず僕自身のセクシャリティについて初めて自分の口から親に説明をして、僕のパートナーとしてKのことを話した。
その後、Kを実家に連れて行って、顔合わせをしてもらった。
いわゆるカミングアウトについて、僕は否定的な考えを持っていた。
なぜなら自分にとって、セクシャリティは自分の言動と常に同期していて、表裏一体の関係で表現されるもので、わざわざ言語化する必要を感じなかったから。また、人間が元々多様であるという前提は僕にとっては当たり前で、他人のセクシャリティなんて常に不明瞭なものなのだから、それに何か名前をつけて公開したりカテゴライズして限定するのは無粋な行為に思えていたから。
そもそも、カミングアウトが必要になる相手は魂の形が初めから違うのだ。そういった人々とは自分と生き方が交わることも無いだろうから、出来るだけ関わらずに暮らしていくべきだ、という態度を取っていた。
しかしここ数ヶ月の間に考えが変わってきた。
きっかけはいくつかあって。
一つに、Kの絵を展示したこと。
以下がその時の作品です。
Kの絵(2013 - 2023)
10年間の油彩やスケッチ、テキストで構成した作品。
今年の3月、下京渉成小学校作品展で展示をしました。
2月ごろだったかな。
婚姻の平等について問われた岸田首相は「社会が変わってしまう」と法制化を否定しました。その後、当時の首相秘書官が「同性婚を認めたら国を捨てる人が出てくる」と主張し、LGBTの人々について「見るのも嫌だ」「隣に住んでいるのも嫌だ」と発言しました。この一連の出来事は様々なメディアで取り上げられ、多くの人々が知ることとなりました。
Twitterでそういったニュースを目にする度、僕は大きな不安に襲われる。
すぐ身近にいる人々によって自分が排除されるかもしれないという恐怖。そして恐怖が伝播することによって、多くの人々が死ぬかもしれないという悪夢。
本当にこの社会は地獄なのだろうか?
僕は確かめたかった。
そのためには人に本当の気持ちを伝える必要があった。
面倒でも、恥ずかしくても、怖くても。
もともと絵は気持ちを伝えるためにあるのだから。
そうして、結果的に、思いがけず作品を通して間接的にやりたくもないカミングアウトをする羽目になったわけである。
展示した絵はKを描いたプライベートなもので、通常は展示しない未発表作だった。そういう意味でも、作品の修練度やコンセプトの面において気恥ずかしいものであった。だけど、意外にも見てくれた人からの印象は僕の予想と違って、絵は真っ直ぐに物語を伝えていた。絵画の表面的なことなんて、結構どうでもいいのかもしれない。というより、僕が執着していた外見の部分は、単にポーカーフェイスを形作るものに過ぎなかったのかもしれない。
この小学校での展示があって、自然と家族とも目を合わせられるようになった。
向き合う順序がおかしいけれど。
ちょうど、Kと出会ってから10年が経つところだった。
それから雪崩のように一気にことは動いた。
けれども、何も変わっていないと言えば変わっていない。
ただ自分の心が晴れた感じだけはしている。
僕のために、Kのために、二人のこれからのために、居場所を少しずつ作っていけたらと思っている。
うまくいくかはいつもわからない。
でも、とにかく自分の手でやっていくしかないよね。
これでひとまずKの話は終わり。
ここからはnoteの外でやろう。