「キャラクター絵画」回顧録3
現在「キャラクター絵画」と呼ばれているもの、その始まりから振り返るメモ。
長くなったけど、がんばって〆ます。
(これでもう終わりにしたい…)
約10年前、TwitterやpixivなどSNSの発達によって、インターネット上で出自を超えて無数の絵描きが交流を始め、作品を通じてコミュニティが無意識的に形成・拡大していった。
絵画・イラスト・オタク文化等の様々なジャンルを越境するユニークな制作が生まれ、オフ会的に現実世界でも展覧会を通じて作家同士が繋がっていく現象が起こった。
前回の記事では、アートの世界からの接点として、特に三つの動向を紹介した。
萌えキャラを霊媒にインターネット空間をアートの世界に降臨させた「カオス*ラウンジ」。
京都で「OOOO」が口火を切る形で生まれた、SNSをプラットフォームにした若い作家同士の新たな交流と、外部への接続。
そしてこれらのムーブメントに村上隆氏が強い関心を寄せ、アーティストの発掘・育成をpixivと連携して積極的に行なっていたことを書きました。
あれから10年、今の風景はと言うと、かつて洪水のように人々が流れ込んだ未開の土地は、インフラと区画整備が行われ、それぞれが落ち着くべき場所に暮らし始め、都市と郊外、山間部のように、現実の日本とそう変わらない、穏やかな景色が広がっているように見える。
ある意味ではかつてのムーブメントは根付いたとも言える。現在、若いアーティストはたくさん生まれ、日本のアートの世界は今までに無く盛り上がっている、と噂話を聞く。
しかし、当時その渦中にいた彼ら、僕らが思い描いていた未来とは、現在の状況は多少異なっているかもしれない。
2010年頃に起こったSNS発祥のアートのジャンル越境的ムーブメントは、次第に理想と現実が齟齬をきたし始める。
ある部分は失敗し、ある部分は生き残っている。10年経った今、その要因を「キャラクター絵画」という言葉から、僕なりの言葉で考えたいと思う。
まず問題になったのが、キャラクターを描くことと、アーティストとしての実存の矛盾だ。
ちょっと考えてみて欲しいのだけど、なぜそれまでキャラクターが絵画で描かれなかったのだろうか?
答えは明白で、他人が描いたものだからである。
小学校の図画工作ではキャラクターを描くことはNGとされている。どうして?と子どもが先生に尋ねると、キャラクターはあなたの絵ではない。と答えが返ってくる。もっと具体的な問題は、他者の著作物という点である。
インターネット上に散らばる既存のアニメやマンガのキャラクターのイメージを集めて引用する「カオス*ラウンジ」は、最初から如実にその問題を孕んでおり、多数の批判を受けることとなった。
カオスラウンジの価値観では、インターネット空間は自動的に変化生成増殖する新しい人工の自然であった。そして、その新しいインターネット空間を表現する上では、彼らにとっては、ネットに散らばる絵は単なる画像データに過ぎず、作者の思いがこもった作品ではなかった。
しかし、現実では著作権が存在するし、いくら匿名性のネット空間を表現したと言っても、その作品自体はアーティスト個人の著作物となり市場で取引されてしまう。
いやしかし、そもそも、カオスラウンジのように特定のキャラクターを引用しないまでも、キャラクターっぽく描く=キャラ絵を描くということ自体が、作品の固有性と矛盾する行為だったのではないだろうか?
キャラ絵を描くとは、要は他人の著作物に似せて描くと言うことである。
キャラ絵を描けば、容易に多くの人々の関心共感を得ることが出来た。しかし、それは当たり前で、みんなが知っているイメージを拝借しているからである。そして、そのイメージというのは元々は既存のアニメやマンガが出所であり、必ずしも作家自らが生み出した造形というわけではない。
また、キャラ絵はその性質上、みんなが描けるものであった。
もちろんクオリティーや創造性を度外視してではあるが、そのキャラっぽく描くということは、キャラクターを知っていれば、外見の記号的な特徴をなぞれば誰でもある程度可能なことである。(アンパンマンをそれと分かる形で比較的誰でも描けるように。)
補足)
「ただ」キャラ絵を描くことは比較的容易であると言ったのであり、キャラ絵の全部に技術が要らないとか創造性が無いとか言っている話では全くありません。
ここから推察すると、キャラ絵を描く人が増えて連帯が生まれたのは当然の結果だと思われる。
キャラ絵は元々既存の著作物から派生したイメージであり、多くの人々が知っているものだった。
そして、それ故にキャラ絵は技術に拘らずみんなが描けるものだった。
したがって、キャラ絵をアート作品にしようとした時に、著作権の問題が起きたり、法的に問題は無いにしても、強い言葉を使えばイメージの盗用という側面は不可避の問題であり、キャラクターを描くことが作品やアーティストの唯一無二性と矛盾する事態が起こるのは必然だったのではないだろうか。
追記)
これを解決する為に、特定のキャラクターと分からないように原型を歪めてオリジナルのキャラクターのように見せるという手法が取られたり、キャラクターの記号性だけを剥ぎ取って原型がわからないようにバラバラにコラージュする、キャラクターの周りの世界観や風景の方を主体とする、といった解決策が行われるなどした。(と、僕は勝手に回想する。)
そして、さらに言えば、キャラ絵を描くことで連帯するということは、作家の個性をキャラ絵に依存させる、という危険性を孕んでいた。
先ほど話したキャラ絵の問題を考えてみると、キャラ絵を描くと言うことは何ら新しいことでも、それ自体に価値があることでも何でもない。ただSNSの発達によってこれまで隠れていたアート未満の作品が可視化され、一気に増殖しただけである。
最初から、キャラ絵を描くことただそれ自体は、作品の特殊性を担保する前提などにはなり得ない運命だったのである。
しばらくするとみんながキャラ絵を描き展覧会をするようになり、その輝きは瞬く間に失われていった。
「キャラクター絵画」という言葉に僕が抱く違和感は、こういった理由からである。無批判にその言葉を使うことに、僕は空虚を感じる。当時から、僕は「キャラクター絵画」というカテゴライズに嫌悪すら感じていた。アーティストであるならば、今一度、キャラクターを描く意味について考えてみるべきではないだろうか、と思ったりもする。(そういった思いもあり、今書く必要もないのに長々と書いています。)
もう少し書きたい。まだ足りない…。
思った以上に長くなってしまったので、次回につづきます。
次は、
SNSを離れてアーティストで居続けることの困難さ、について。
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