パンと菌のジェンダー論
たまたま少し時間があったので、アンパンマンについて考えてみる1日があった。
みんな知っている通り子供達に大人気のアニメだけど、よく考えてみると実はしっかり見たこともないし、少なくともここ最近のアンパンマン事情には詳しいとは言えない。
2話分ほど眺めていて、自分が抱いていた"アンパンマン像"が少しも崩れていないことに気付いた。
相変わらずアンパンマンは優しく強く、一回は顔が濡れたりしてピンチになるけどやっぱり最終的にはバイキンマンがやられていく。
けれど、大人になった今冷静にアンパンマンを観ていてハッとしたことがある。
アンパンマンの放つメッセージは勧善懲悪を推奨するということだけでなく、その真の価値は、少なくとも現代においては
みんなが多様性を受け入れる社会
を描いていることにあるのではないだろうか。
そしてアンパンマンが子供に人気の理由も、実はそこにあるのではないか。ということだ。
可能性の一つとして
「人は本能的には多様性を否定しない。(或いはただそこにあるものとして捉えている。)」
という説を提唱したい。
生まれたばかりの赤ちゃんにとっては周りのもの全てが言葉によって規定されていない状態なので
母親と自分の家の飼い犬(例えばチワワとする)の違いはわかっても、知らないおじさんと他の家のパグを見たら、「おじさんと犬」ではなく、「見たことないもの」としてしか認知出来ないような気がする。
パンも犬もおじさんも、天丼さえも、まずは「そこにあるもの」として捉えるのが第一段階なのではないか。
少しずつ言語を習得していくにつれ
それぞれに名前があることを知り、名前を覚えることで「わんわん」と「おじさん」をハッキリと違うものとして認識できるようになる。
こうやって世界を少しずつ切り分けている最中の子供に
「いい」「わるい」などの抽象的な概念が理解できるはずもなく、「いいこだねー」とか「ダメでしょ!」のような外部刺激によって段々と「いい」と「わるい」の境目がハッキリしていくのではないか。
つまり、言語によって差異が規定されていなければ
対立する概念だけでなく、生物としての種の違いだけでもなく、究極的には生物と非生物、概念と実体の違いさえないのかもしれない。
(これについては今ちょうど読もうとしている本にそれっぽいことが載っていそうなので、明後日くらいには180度考えが変わっているかもしれないけれど。)
とにかく、アンパンマンの世界ではパンも菌も、動物も人も妖精も、ジェンダーもハッキリと差異が描かれていないことは間違いない。
そして、ドキンちゃんが食パンマンに恋をしていることを考えてみると、もはや善悪という対立する概念すらも超えた、真の多様性が成り立っているような気がしてくる。
文化や思想が違っても、
生物としての種が違っても、そして性別がどうであれ
さらに言えば、どう分けたところで違うカテゴリに属するもの同士でも愛が成立する。
この、種や概念を超えたつながりというのは、童話とかおとぎ話にも共通することだろう。
それぞれが何かのメタファーかもしれないし、そこまで深い意味はないのかもしれないけれど、だとすると余計に、本能が多様性を受け入れているという証明にならないだろうか。
もしかしたらパンにカビが生えるのは、一種のラブストーリーなのかもしれない。
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