楽をして生きていきたい
けしからんタイトルだが、結構いいことを書いていると思うので、「若いくせに何をいうか!」なんて立腹せずにぜひ読んでほしい。いい感じの問題提起をしていると自負している。
ぼくは怠惰で、向上心のかけらもなく、意識の低い人間である。
常にサボることだけを考えていて、「できるだけ楽をして生きていく」がモットーなのだが、そんなことを大っぴらに言うと白い目で見られてしまう。
しかし、人間とはそもそも楽をしたい生き物であるはずだ。
というか、楽をしたいという気持ちが、人間をここまで進歩させたんじゃないの?と思っている。
まず、日本人が狩猟採集から農耕を中心とした生活に移行したのは、楽で安定した食糧確保の手段を模索した結果である。
また、自動車や洗濯機や掃除機といった発明品も生活を楽にするために生み出された製品である。
「楽に生きたい」というのは人間の本能だ。
一時期、ポテサラ論争なるものがメディアを賑わせた。
曰く、ポテサラ作るのは大変なんだよ、知らないやつが批判するな!みたいな論調が多かったような気がするが、ぼくとしては、そうじゃないだろ!と思った。
すなわち、手抜きでいいじゃんってこと。「手抜き=悪」という思考が気に食わない。手抜きとは、労力や時間やコストを天秤にかけた末に考え出された戦略的結果である。
そもそも、惣菜のポテサラを批判したおっさんも目隠しして食べたら、市販の惣菜と手作りの区別なんかつかないだろって思っている。ぼくはゴリゴリの結果論者なので、過程を軽視しすぎているというのはある。
手抜きはけしからんっていう人は洗濯機とか使わないで欲しい。洗濯板と桶でヒイヒイ言いながら手洗いしろ。
勤勉であることが美徳だという価値観に違和感を感じている。
ただし、ここで誤解なきように言っておくと、ぼくはあらゆる努力を否定しているわけではない。
なぜなら、楽をするためには努力をしなければいけない場面もあるからだ。逆説的な言い方になるが、「努力を回避するための努力」は怠らない。
例えば、洗濯機は洗濯という行為を圧倒的に楽なものにしてくれたが、洗濯機の発明は開発に携わる方々の努力の賜物だ。ありがとうございます。
もっと卑近な例を挙げると、トラブルの芽を事前に摘んでおいて、大きなトラブルに発展するのを防ぐとか。試験直前に一夜漬けしないように、毎日ちゃんと復習するとか。
だから、ぼくは「楽をするための努力」に関してはサボらないように心がけている(サボっちゃうと全部自分に返ってくるからね)。反対にいうと、結果的に自分が楽になるのかどうかわからない努力に関しては、徹底的に回避している。
「楽をするための努力」はとても大切なことなのだが、どうやら世間では、前半の「楽をするための」は端折られて、「努力」が大事だよね!みたいな感じになっていると思う。楽をするという目的があって、そのために努力しているはずなのに、努力すること自体が目的になってない?ってこと。それはおかしい。
努力自体を否定するわけではないが、結果にコミットしない努力はする必要がないし、結果にコミットさせるための努力も効率化を図ってできるだけ努力の質量を減らす工夫をすべきだ。まあ別に、勤勉に働いたり、努力することが好きな人は勝手にやっておけばいいが、その代わりそれをこっちに押し付けないでほしい。
「若い時の苦労は買ってでもせよ」という日本のことわざがあるが、ぼくはこれが全くもって意味不明である。苦労とは買ってでもするものではなく、できるだけ回避するものだからだ。しょうがなく付きまとってくる苦労は渋々ながらこなさなくてはいけないが、自分から苦労を買うという発想は理解不能だ。
本当かどうかわからないけれど、「バリでは1年に3回コメを作っている。本当はもっとたくさん作れるが、年3回の稲作で十分に生活できるし、面倒だからそれ以上は働かない」とバリ人から聞いたことがある。真偽は不明であるが、ぼくはこの考え方が大好きだ。でも、勤勉教の信者は「けしからん、できるだけたくさんコメを作れ!」って言うんだろうなって思った。
というわけで、ぼくは今日もできるだけ必要のない努力は回避しながら怠惰に生きています。
お父さん、お母さん、こんな怠け者な息子でごめんね。