次の仕事に関する報告と経緯と葛藤
昨日、C補習授業校から第一次選考合格の通知が届いた。
「第一次選考合格」といっても第二次の面接や試験があるわけではなく、コロナの状況を鑑みた上で改めて2月下旬に正式な判断を下す、という保留的な決定のため内々定のようなものであると認識している。
募集段階では4月赴任という話だったが、コロナの影響で赴任月日が8月に変更になった。
コロナにより帰国を余儀なくされた日本人駐在員の動向や、それに伴う児童生徒の予定在籍者数等をもとに赴任に関する具体的なスケジュールが決定されるため、この先のことはまだまだ不透明だ。
ぼくにできることは何もなく、ただ事態を静観するより他にないのが現状である。
20代も後半にさしかかった年齢で再び任期付きの職に就くことや、コロナの脅威が衰えないなか感染リスクの高い南アジアに移住することなど、決断に至るまで様々な葛藤があった。
大半の同期が本帰国後も教職に就いている一方で、ぼくが教員採用試験を受けなかった理由は2つある。
1つ目は、今年の4月から世界一周をしようと考えていたこと。
2つ目は、「自分は教員に向いていないのでは?」と感じていたこと。
1つ目の理由は置いておくとして、後者の理由を詳しく説明すると、これは「何がなんでも教員にはなりたくない!」というネガティブな理由ではなく、「他にも向いている仕事があるのでは?」と考えたからだ。
実際、教員をやっていて辛かったことよりも楽しかったことの方が多いし、再び教職に就くことに大きな抵抗はない。
つまり、最終的に教員になるにしても、若いうちに教員以外の経験も積んで視野を広げたいという気持ちが大きいというわけである。
また、東南アジアでの暮らしが思っていた以上に居心地が良く、海外移住(永住?)もアリだなと積極的に考えているのも、日本国内で教職に就くのを躊躇している理由の一つである。
再び在外教育施設で働きたいと考え始めたのは、つい2ヶ月前のことだ。
10月初旬に行われた日本人学校学校採用教員募集説明会で、日本人学校での経験談を話したのがきっかけだった。
10月といえば年度も折り返しを迎え、その頃のぼくは、いつからどのような形で海外に出ることができるのかを模索していた。
経験談講話のオファーが舞い込んで来たのはまさにそのタイミングで、発表の準備をしながらぼくは思った。「あ、また日本人学校で働けばいいんだ」。
だから、正直にいうと在外教育施設で働きたいというよりは、海外移住の口実として在外教育施設を選んだに過ぎない。
本音を言えば教員以外の方法で海外に出たかった。しかし、ただでさえ海外渡航が厳重に規制されている現状、未経験の業種で海外移住に挑戦するのは困難を極める。
言い方は良くないが、海外に出る手段として在外教育施設は最も堅実で、最も手っ取り早かった。
さっそく海外子女教育振興財団法人のホームページをチェックすると、インド某都市にある補習授業校が求人を出しているのを見つけた。
インド!
移住先として非常に魅力的な国である。実は前々からスリランカに住みたいと考えていたので、ちょうどよかった。
募集締め切りは10月末。締め切りまで1ヶ月もない。
急いで現在の職場の上司と相談した。
補習授業校の求人募集締め切りのちょうど数日前に、社長と会うタイミングがあり、来年度のぼくの意向について話し合いを行った。今回の挑戦に際して最も大きな葛藤はこの時に生じた。
ぼくは今、沖縄を中心に学習支援事業を展開する中小企業で働いているのだが、この会社は台湾、ベトナム、インドネシアでも事業を展開している。社長はぼくに、このまま残ってくれれば駐在員としての選択肢があることを示唆し、さりげなく翻意を促した。特にインドネシアでの事業は最近始めたばかりということもあり、ぼくのインドネシア在住経験を買ってくれているようだった。
ぼくの気持ちは揺らいだ。
駐在員というのは魅力的である。中小企業ゆえに、大企業ほどの好待遇は望めないがかなりいい暮らしができるし、何より身分が安定している。
海外移住の手段としては、最も恵まれたものである。
しかし悩みに悩んだ末、最終的にぼくは安定を捨てて、補習授業校へ履歴書を送った。
今でもこの決断が正しいのかわからないし、今後もずっと葛藤し続けることになると思う。
そして、11月初旬に補習授業校とオンライン面接を行い、昨日、第一次選考合格の通知を受け取ったというわけである。
再び在外教育施設に勤めるという選択を思いついてから、内々定の連絡をもらうまでわずか2ヶ月足らずの急展開だったが、この2ヶ月間は今までの人生で最も悩んだし、自身の人生設計を何度も何度も考え直した。
冒頭に書いたが、赴任が正式に決定したわけではない。
今はただ、コロナの状況が落ち着き、世界が平穏に戻るのを祈るのみである。