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フリーダムサラリーマンの日常

というサブタイトルのブログを以前やっていた。もう無いけど。いったい何がフリーダム、自由だというのか。

自由の反意語は「専制」「統制」「束縛」などだけど、どれも僕の感覚だとピンと来ない。あえて言うなら「他由」だ。そんな言葉ないけど。自由とは「やりたいことができるかどうか」という外的要因の有無によって定義される概念ではなく、「行動の理由が内にあるか外にあるか」ということだと僕は思っている。分かりやすく言えば、会社とか学校とか常識とか周囲の評価とか、そういうことに左右されないことが、自分の内なる声に付き従うことが「自由」なんじゃないかと思う。

例えば会社にはドレスコードというものがある。サンダルを履いてきてはならん、という決まり事がある。履いてはいけない理由は会社にあって、僕の中にあることじゃない。別にサンダル履いたっていいでしょ。でも僕はサンダルを履いて会社に行くことはない。それは会社の理由に従っているということではなく、会社にサンダルで行く理由が僕には無いというだけのことだ。だからもし理由があれば、僕は会社のドレスコードなんか無視してサンダルで通勤してしまうだろう。

まあせいぜい「水虫が悪化してツライから多めに見てよ」という程度の理由だろうけど。それで罰せらりたり、降格させられたり、減給させらりたりしてもそれは仕方の無いことだ。自由には一定の責任と犠牲が伴う。

「社会人としてかくあるべき」というフレーズは、僕にとって「信仰」のように思える瞬間がある。教典を絶対とする原理主義的な信者が時に不気味に思えるのと同じように、「会社に属する者としてかくあるべき」という姿勢がどうしようもなく気持ち悪く思えることがある。だから、やっぱり僕にはサラリーマンは向いていないのだと思う。一部上場の株式会社で働くという生き方は、確実に僕の性質と調和しない。死ぬまで成長拡大を求められ続けるなんて真っ平御免だね。けれど他に生きて行く術が無いからサラリーマンであり続けている。

この矛盾を解消する術は今のところ無い。けれど軽減する術はあるのではないかとフト思い、フリーダムサラリーマンというスタイルを模索している。その僕の在り方を快く思っていない人間はたぶん結構いるんじゃないかと思うけど、面と向かって何かを言われたことはない。誰でもいつでもなんでも言ってくれて構わないよ、と思っているんだけどね。そうやって腹を括っているとかえって誰も何も言えないようだ。

僕は会社に属しているけれど、それが僕の世界の全てではない。会社は僕の世界の一部に過ぎない。そこで過ごす時間が他で過ごす時間より長いというだけのことで、それ以上の意味も価値も無い。

とはいえ自由に伴う「責任」と「犠牲」を受け入れる覚悟だけは忘れてはならないだろう。

フリーダムの模索はこれからも続く。

<本日の BGM>
Pearl Jam / Animal

I'd rather be with an animal

檻の中に閉じ込めても、首輪で繋いでも、本当の意味で人間が動物たちの自由を奪うことはできないんじゃないかな。

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