蜂の旅人
ギリシャの巨匠テオ・アンゲロプロスの「蜂の旅人」を僕は三回鑑賞している。20代、30代、40代の時にそれぞれ 1 回ずつ。
初めて観たのは早稲田松竹。なんだったかな、「こうのとり、たちずさんで」だったかな、二本立てで観た。その時は正直言ってさっぱり理解できなかった。途中で寝たかもしれない。良い悪いという以前にそもそも話を理解することができなかった。
次に観たのは DVD。理解はできたと思う。でも共感はできなかった。アンゲロプロス作品はいくつも観ているけど、この映画だけ「なんでこんな後ろ向きでネガティブな作品撮ったんやろか」と疑問に感じた。でもそう感じるのは僕がまだ若いからかもしれない。「老い」をテーマにしたこの映画に思い入れることができないのは仕方ないことで、自分が老いを感じたときに改めて観てみたら感じ方は変わるかもしれない、そんな風にも思った。
そしてそれから約6年後、40代を迎えてから改めて観直してみたのが二年前。旧ブログに綴ったそのときの感想。
マストロヤンニ演じるスピロは、老境を迎えて家族を捨て、蜂と共に旅に出ます。そしてその道中に己の人生を辿るようにして、所縁のある人や場所を訪ねます。旧友と酒を酌み交わし、若かりし頃のように笑い転げてみたりもします。
僕も写真を撮るようになってから、過去に縁のある場所によく足を運ぶようになりました。過去に住んでいた街、通っていた学校、勤めていた職場。そのような場所に足を運んだ動機は単純な被写体探しではありましたが、不思議とこのスピロのような「孤独」が常につきまとっていた気がします。
彼の旅に寄り添った少女は、彼の手によって巣立つことができました。そしてその旅の最後、彼の人生と共にあり続けた蜂の巣箱たちが彼の目の前に並んでいます。
彼はそれまでの人生を綿密に辿ることで、己の人生のスケールを知ってしまいました。人生を捧げた蜂たちは日に日に死に絶えていき、少女も旅立ってしまいました。自分の人生とは何だったのか、予期せずその答えを突きつけられ、そしてその答えが余りにも空虚で、彼は耐えられなかったのではないでしょうか。
そんな悲しい解釈しかできません。残酷な映画です。
この解釈もまた、時を経て変わっているといいなあ、と祈るばかりです。
いつの時点の感想が正しい、という話ではない。仮に40代の自分が20代の頃の自分に向かって「こういうことなんだよ」と説明したところで到底飲み込めないだろう。
ただ、年とともに変わりゆくものは確実にある。若い頃の自分は想定もしていなかったような変化が起こる。
その変化を楽しめるかどうか、それこそが今の僕にとって一番大切なことだ。
写真は、僕が幼少時代を過ごした街を、40を過ぎてから訪れて撮ったもの。あの頃と変わらずど田舎のままだった。それが嬉しいような寂しいような。とても複雑な印象を残した。