僕が僕のことを僕と呼ぶ訳
めっちゃこんにちは。
「私」という存在は、生まれてこの方自身についての呼称が「僕」である。
(但し「私」は立派な社会人を自認しており、ビジネスシーンや文章で記す時などを除くものとする。)
人は誰しも自分の一人称を持つが、多くの人が幼少期から繰り返し同じ呼称を繰り返し、習慣になってしまっていることだろう。
今回、この道20年を超える「僕」ヘビーユーザーである私が、業界の第一人者として一人称について考えていきたい。
原体験
私が「僕」という一人称を選んだ原体験が存在する。
これは声を大にし言いたいのだが、この一人称を自称するのは惰性ではない。積極的に選択した。
時は遡ること、小学校2年生の頃である。
昨日まで「僕」と言っていた友だち達が皆、「俺」にバタバタと乗り換えていったのである。
1人や2人ではない。ことごとく皆が、である。
当時の勢いは、MNP乗り換えでiPhoneが7ー8台タダでもらえるキャンペーンがやっているのかと錯覚する程である。
ここで感じ取った。
彼らからビシビシ放たれる「【俺】を名乗っているオレカッケー」というオーラを。
これは、まだ到達できない大人への憧れなのではないか。
まだ運転のできないバイク、まだ飲めないビール、まだ提出できない確定申告。それらへのフラストレーションの捌け口にしているのではないか・・・!
※ここで、《俺》呼称者を否定する意図は一切ないことを書き添える。
ブルーオーシャン戦略
こんなことを考えた少年である私は、この瞬間以降、周りの皆とは異なる呼称、すなわち《僕》という人間としてのブランディングとして「僕」の使い手となる。
もちろん、当時【ブランディング】などと言う、文明開化の音が聞こえるハイカラな横文字を知る由もなく、周囲との独自性を簡便に生み出すことができる点から自然と選択した。
また、あまりにも「俺」ユーザーが増えることによって、他者との差別化が図りにくくなり、彼ら当初の目的の根幹(だろうと勝手に推測したもの)である「オレカッケー」が果たされにくくなることも指摘される。
「それならば、希少な位置に居座り独自ポジションを確立しよう」
これは当時、少年であった男の「ブルーオーシャン戦略」であったのだ。
(このタイミングで、脳内でネプチューン名倉さんの声にて「さっきから何言うとんねん!!」というツッコミを入れていただきたい)
僕という呼称による印象
話は変わり、「僕」を一人称とする人間にはどんな印象を持つだろうか。
信頼できる相棒に尋ねてみた。
ユーザーの平均年齢は低い(多くのユーザーが一定の年齢で「俺」へと乗り換える)ため、無邪気さを表現し親しみやすい印象を感じることが多いようである。
これは卵が先か鶏が先か、になるが自身のキャラクターとは親和性が高いものだと感じる。ラッキーラッキー。
オレオレ詐欺撲滅
「僕」ユーザーは、親しみやすいだけでない。社会へ貢献している。
オレオレ詐欺をはじめとした、特殊詐欺は社会問題となっている。
オレオレ詐欺の手口といえば、年老いた親や祖父母へ向け、息子や孫のフリをし、「もしもし、オレオレ」で連絡するというものである。
あまりに「俺」陣営がユーザー獲得を進めたために、実現した手口ともいえる。「俺」の功罪ともいえよう。
お気づきかと思うが、この手口は我が親族には通用しない。
なぜなら「もしもし、ボクボク」であるからだ。
悪意のある行為から社会を守る、責任感ある行動である。アンパンマンが背中にマントと共に背負う、期待の重みを感じられた気がする。
気のせいであった。背負っているリュックに不要な書類をたくさん入れていた。
結び
自分のことを話すのに一人称は欠かせない。
今日の会議でも「僕はこう思います」、力強く言っていこうではないか。
ビジネスマン。ビジネスマン。ジャパニーズビジネスマン。
夢見がちな居酒屋侍、今晩も孤軍奮闘中です