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晴れ着が苦手な女の生き様、虎に翼

私は男になりたいわけじゃない。
女を捨てたかっただけだ。


朝ドラ『虎に翼』劇中の、主人公寅子の学生時代からの友人山田よねさんの名台詞である。

私は自身の身体の性が女であることを受け入れながら生きているが、これまでも今も、主に社会的に求められる女性性みたいなものとの折り合いは決して良くはなく、というか絶望的に悪く、その軋轢を感じる場面に出くわす度、中途半端に自分のことを否定しながら生きてきたように思う。

だからよねさんの言うように、別に男になりたいわけじゃないという感覚には頷きつつ、女を「捨てたい」という確固たる意志は持てず、「億劫」くらいのもっと宙ぶらりんなものかもなぁとぼんやり思った。

 *

あらゆる節目でそのことを特に実感させられてきたものの象徴として「晴れ着」がある。
着物やドレス、いわゆるハレの日に着る衣服への抵抗感がとにかく凄まじかった。

幼少期からすでに、「女の子」として可愛がられるお衣装を着せられることを嫌悪し、母いわく、言葉通り逃げ回っていたらしい。

中学時代に部活の皆と夏祭りに行く時も、全員カラフルな浴衣の中、1人だけ黒Tシャツと長ズボンで行った。はっきり言って浮いていた。

成人式など当然行くわけもなく、わざとマクドのバイトをフルで入れていた。
「前撮りもしないの!?」と、友人たちから驚かれるたびに、変な笑い方をして曖昧に話題を変えていた。
親のために着るという友人もいた。
そんな話を聞くたび、「親のため」よりも己の不快感ゆえの逃避を優先させる自分は、とんでもない親不孝者のような気がした。
幼少期からの我が子の様子のおかしさを間近で見てきた私の親は、娘が振袖を着ないことについて何も言わなかった。それは本当にありがたかった。

この10年足らずで随分と世の中や個人の選択のありようも変わったが、私が20歳の頃は、まだそんな時代ではなかったのだ。

だが、<多様性>が過剰にインストールされた今は今で「そうしたくない人も他にいっぱいいるから別に変じゃないでしょ!」「好きにしたらいいじゃん!」と、個人の心の葛藤をすっ飛ばしてなぜか簡単に全肯定されることも増えて、それはそれでモヤるのだが。
(自分もきっと、どこかで人にそう感じさせているであろうことが余計恐ろしい!)


そうしてのらりくらりと晴れ着を回避していたが、ついに逃げられなかったのが大学の卒業式である。

母校の大学では、女子はほぼ全員、袴姿で出席していた。
そう決められていないのに、そうする。
毎年、袴や着物姿ではない女性は見当たらず、年々不安を募らせながら先輩たちを見送ってきた。
(というか、着たくなかった人は「いなかった」のではなく「見えなかった」だけなのかもしれないと、今は思う。)

卒業式当日、私は母が親戚から借りてきてくれた袴を着て出席した。
華やかな和装に包まれた身体は雨の日の地下鉄くらい窮屈で、口紅を塗られる自分の顔面は福笑いみたいにあべこべで、でも、そうした姿で周りに「馴染み」、笑顔をつくって部活やゼミで四方八方から向けられるカメラに写った。
家族は喜んでいた。やっぱり娘の晴れ着姿、見たかったんや、そらそうよなと、むくむくと謎の罪悪感だけが生まれた。

私を見るな。チヤホヤするな。してくれるな。
顔は歪に笑って、背筋は曲がり、心はほとんど何かに怒っていた。痛かった。

式が終わると、夜は学部の謝恩会で、結婚式の二次会みたいなドレスを着ないといけなかった。それが輪をかけて苦痛だった。これはちょっとゲボが出そうだった。
「それっぽく、浮かない服」の調達に大事なバイト代を使うことも嫌だった。

そんな最強の「自分じゃなさ」に身を包んだあの1日は、長らく吐き出すことも飲み下すこともできない小骨のような思い出として、胸につっかえていた。

しかし、皆と違う格好をしていっても罰せられるわけではないにも関わらず、私はそれを自分で選んだのだ。
それしか選べなかった自分の弱さを呪った。
ジャルジャルのコントみたいな黒Tシャツで浮いていた中学時代の方がマシだ。

華やかな着物やドレス、人生の輝かしい場面で美しく人を飾る。「女性に生まれたこと」を心の底から喜び、自分も周りの人をもハッピーにする。
女性性の全肯定。今ある生への祝福。
そんな忌避してはいけないものを忌避する自分を呪った。
それそのものを忌避しているわけでなく、他者が身に纏い喜びに包まれている姿を絶対に否定したくもない。
だけどそれを着ている自分を、どうしたって受容できない。これはごく個人的な、心と社会との接点の問題だ。

この「いやだ」が、自分の中のどこから生まれるものなのか?何なのか?
極端な女性性?それを他人の目を通してあれこれ言われること?厄介な自意識?
きっと、それもある。

だけど1番は、自分が「いやだ」と思うことを、思ってはいけないと、思ってしまうことなのかもしれない。

よねさんの言葉からいろんなことを考えた。
私は女を捨てたいわけでも、男になりたいわけではなく、ただ、自分になりたいだけなのかもしれない。

だけど、自分になるってなんだろう。
いろんな違和感に気付いて、それとうまく折り合いをつけながら生きることだろうか。
答えはまだ出ていない。咀嚼が必要だ。

大学の時計台の前で撮影された袴姿の私の写真。
それを祖父は死ぬまで自分の机に飾っていた。
きっと、人生でただ一度だけ見た孫の晴れ着姿が、本当に嬉しかったのだと思う。
それを目にするたび、期待に応えられない自分がずっと辛かった。

それは今でも実家にある。
いっそ、火葬の時にじいちゃんと一緒に燃えたかった。

だけど、時が流れた今となっては、自分が「自分じゃない」と思っている自分でも、関係なく愛してくれる存在がこの世にいたことを、少し心強く思えるようになった。

「私は私を曲げずに弁護士になる」と宣言し、最後に国を相手に大仕事を成し遂げたよねさんが本当に、本当に、かっこよかった。
この社会はまだまだクソ中のクソだけど、よねさんが登場する物語を観られる時代を生きていられることは誇らしいことだ。

私はこれからもウエディングドレスや着物は着ないだろうし、オーケストラの舞台だって黒シャツ黒ズボンで乗り続ける。
いや、着たくなったら着ればいいし、一生着なくたっていい。それでいいのだ。

『虎に翼』が終わってしまって寂しいが、10年前は興味が湧かなかった、『カーネーション』の再放送が始まり、毎日楽しく観ている。
女に生まれたことに葛藤を抱えながら、洋服やドレスを生み出す人のお話。
糸子さんの人生に、これから何を感じるのだろうか。

私は私の世界が拡がる予感にちょっとだけわくわくしている。

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