自分は人生の主人公か?(2)
「自分の人生を主人公として生きる」
という内容のブログを書かせてもらって、2ヶ月がたった。
今は新型コロナウイルス感染拡大の影響を世の中がもろに受け、自分の所属するチームも活動休止状態にある。
もちろん世の中的にも自分の所属するチーム的にもこの状態を悲観的に捉えてしまうのは仕方のないことだとは思うが、この「危機」を前向きに捉え、新たな「機会」とする考え方には今回の件に関わらずとても納得しているので、個人としても組織としても新しい角度で前に進むきっかけにしたい。
そのためではないが今回は、
題名にもある通り、改めて自分自身に対して、
「お前は主人公か?」と問う機会にしたい。
というか、ある本を読んで問わずにはいられなくなった。笑
ある本というのは皆さんもご存知スティーブン・コヴィー先生の「7つの習慣」であるが、初めて読んだ自分にとってはあまりにも衝撃的な内容だったので、ここで自分への問いと共にその内容の一部を共有させてもらう。
(1)自分の思ってた「主人公」として生きる
前提として、僕は以前に書かせてもらったブログで、自分の考える「人生の主人公」とは、「自分の感情や心に素直に生きることだ。」
と書かせてもらったが、今回この「7つの習慣」を通じて、その考えがとてもとても甘いことに気づかせてもらった。
何が甘かったのか?
結論から言うと、
自らの人生を本当の意味で主人公として生きるためには、自分の感情や心に"ただ素直"なだけじゃ全然ダメで、そこには「主体的な責任」が伴う。
ということだ。
この「主体的な責任」とはどういう意味か?
(2)「主体的である」とは
「主体的な責任」とは何か?
この言葉を理解するために、「主体的」と「責任」という言葉の2つに分けて考える。
主体性とは、自発的に率先して行動することだけを意味するのではない。人間として、自分の人生の責任を引き受けることも意味する。私たちの行動は、周りの状況ではなく、自分自身の決定と選択の結果である。
なんとなく言葉ではわかるけれど、まだよくわからない。
この、「自分自身の決定と選択の結果である。」という部分を理解するにあたって、とてもわかりやすい事例があるので、それを紹介する。
(3)誰もが持つ"選択の自由"
ビクトール・フランクルという人物の衝撃的な体験を紹介したい。
フランクルは、また精神科医でもありユダヤ人でもあった。第二次世界大戦時にナチスドイツの強制収容所に送られ、筆舌に尽くし難い体験をした。
彼の両親、兄、妻は収容所で病死し、あるいはガス室に送られた。妹以外の家族全員が亡くなった。フランクル自身も拷問され、数知れない屈辱を受けた。
ある日のこと、フランクルは裸にされ、小さな独房に入れられた。しかしここで彼は、ナチスの兵士達にも決して奪うことのできない自由を発見する。
たしかに収容所の看守たちはフランクルが身を置く環境を支配し、彼の身体をどうにでもできた。しかしフランクル自身は、どのような目にあっても、自分の状況を観察者として見ることができたのだ。彼のアイデンティティは少しも傷ついていなかった。何が起ころうとも、それが自分に与える影響を自分自身の中で選択することができたのだ。
自分の身に起きること、すなわち受ける刺激と、それに対する反応との間には、反応を選択する自由もしくは能力があった。
ここから、刺激と反応の間には"選択の自由"があり、この自由は誰もが持つと言うこと。
そして自分の人生は、生まれてからずっと与えられてきたこの「選択の自由」をどう選択・決定してきたか。という結果であり、その結果が、「今」を創っていることがわかる。
ここで初めて「責任」の隠れた意味がわかる。
「責任」は英語でレスポンシビリティ(responsibility)という。
この言葉を分解すると、レスポンス(response=反応)とアビリティ(ability=能力)という2つの言葉でできていることがわかる。
つまり「責任」とは、「刺激に対して"反応を選ぶ力"」だと考えることができる。
(4)甘かった主人公像
ここでやっと先に述べた、
主体性とは、自発的に率先して行動することだけを意味するのではない。人間として、自分の人生の責任を引き受けることも意味する。私たちの行動は、周りの状況ではなく、自分自身の決定と選択の結果である。
の本当の意味が理解できるのではないか。
つまり主体性のある人は、自分の行動、そしてそこから生まれる結果に大きな責任を持ち、決して状況や条件のせいにしない。
これまでの自分の発言や行動を振り返ると、
「自分の心や感情に素直に生きる!」
とは言いつつも、
自分の行動やその結果を、周囲の状況や環境のせいにしてしまっていた上に、
それらの物理的な要素、いわゆる「刺激」に対しての「反応」を、
自分自身の意図的な決定や選択によってではなく、ただそれら自分の周りの要因に影響(支配)されることを、非意図的に、"自ら選んでしまっていた"ことに初めて気がついた。
(5)あるべき姿
ここまで自分の「主人公として生きる」という大切にしたい生き方から、足りていないと考えた「主体的な責任」について述べてきたが、
結論としては、
人生の主人公として、
自分の人生を、主体的に生きる。
自分や自分の行動は、"常に"あるべき(ありたい)姿から問われていることを理解し、
自らの強い意思を持って選択し、決定していく。
自分一人の人生の責任を引き受けられない人間に、最高学年としてチームを引っ張っていく責任を持つことや、
将来家庭などを持ち、誰かの人生を守る責任を持つことなど、できるはずがない。
「今の自分があるのは、過去の選択の結果だ」
そう正直に、自信を持って、ドンと言えるような、
"かっこいい人間"になりたいと思う!
なる!
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