投石器

 雨は降り続ける。

 護民長官ペトロニウスは、展望台から城壁の外を眺めていた。

 城市(まち)の外はすべて《海》になっていた。気に入らない景色だった。

 かつてこの国を覆い尽くしていた緑の農地も、狩場も牧草地もなくなってしまった。彼がまだ若く新米の護民官だったころから、毎日毎日見続けてきた牧歌的な風景はもうどこにもなかった。

 世界は《海》によって覆われていた。

 ペトロニウスは天に唾を吐きかけたい衝動に駆られたが、すぐに思い直した。馬鹿馬鹿しいことだ。天になど唾を浴びせかける価値もない。

 昔から『天に唾を吐きかけると、自分の顔に跳ね返ってくる』という。だが、それを信じているやつはよっぽどのろまか、道理を知らないやつだ。もし若くてしなやかな身体を持っていれば、落ちてくる唾からすばやく身をかわせばいいだけのことだし、そうでなければ、斜め上空に吐きかければいいだけのことだ。言い換えればこういうことだ。予測可能な反撃はただ、それを回避すればいいし、敵が強大すぎるならば、正攻法は避けるべきだ。たいしたことはない。それだけのことだ。

 レムリアの他の都市は、すでに海の底であった。すでにどのくらいの数の命がこの海にのみこまれたのだろうか。権力者たちはもっと早い段階で巨大な船を建造し、選ばれし者たちとともにさっさと新天地をめざして脱出してしまった。のこったのは何も知らぬ民衆と、年老いたアムストロ教の教皇だけであった。教皇はあくまで城市と運命をともにするのだと言って神殿に残った。

 ペトロニウスはただの護民長官だった。もちろん、選ばれし者ではなかった。

 降り止まぬ雨が、のどかな田園を消し去り、この山の上の城塞都市を孤立させた。山のの上にあったことと、この城市(まち)の標高の高さが、この街をわずかながら長引かせていた。

 この山は、かつてはもっと高い山であったという話がある。そのむかし、アムストロの神を乗せた流れ星が山頂に激突し、頂きを吹き飛ばして現在のようなかたちになった。徐々にそこに人があつまりはじめ、アムストロ教の聖地となるにいたって、大いに繁栄するのである。以来、五百年、このレムリアの国にはいくつもの王朝しが勃興し、幾たびの遷都が行われたが、この城市は常にアムストロ教を国教とするレムリアの象徴であり、聖地であり続けた。そんなこの城市の歴史も、《海》の侵略によって、もうすぐ終わろうとしている。

 

「天はいけにえを欲しておられる。若い美しい娘を、巨大な投石器でもって天に向けて撃ち放つのじゃ」

 御歳八十二歳になられたアムストロ神殿の教皇サバカレーは、人々に巨大な投石機(カタパルト)を作る事を命じた。

 教皇の言いつけ通り、巨大な投石機は完成し、国中から若く美しい娘が徴集された。

 ペトロニウスの娘もその一人だった。

 その日より、毎日一人ずつ、巨大な投石機によって若い娘が空へと投げ飛ばされた。

 だが、いっこうに雨はやまず、じわりじわりと水面は上昇してゆくのだった。

「おかしいのう。きっと、娘どもの美しさがたりんのじゃな」

「あの娘、本当は若くなかったんじゃないかのう」


 雨が止まないという報告を受けるたび、教皇サバカレーはそのような事を言ったという。

 ペトロニウスの娘は十九人目の、神への生贄となって、豪雨の空に消えていった。

 ペトロニウスの耳にある噂が飛び込んできたのは、ちょうど二十七番目の娘が空の彼方に消えた次の日のことであった。神殿に上がっている下女が護民官に訴えた内容は、ペトロニウスを激怒させた。生贄の娘たちは、投石機によって空に飛ばされる前の夜、等しく教皇サバカレーの慰み者になっていたというのである。

 ペトロニウスは武装し、部下の護民官を引き連れてアムストロ神の神殿へと走った。多勢に無勢で警備を突っ切り、神殿の奥へと突き進む。武装した護民官たちは、最後の扉、アムストロ神の祈祷堂への扉を蹴破ってなだれ込む。

 巨大なアムストロ神の銅像に見守られるようにして、教皇サバカレーはいままさに、二十八人目の生贄を凌辱の最中であった。

「たれじゃ」

 教皇サバカレーは突然の乱入者にしばし呆然としていたが、ふいに生贄の娘をつきはなすと、一糸まとわぬ裸身のまま立ち上がった。

「猊下、お若いですな。とても八十歳のお体とは思えませぬ」

「貴様等、誰の許しがあってこの神聖なアムストロ神殿に足を踏み入れておる」

「だれの許しも得ておりませぬ。ただ、護民長官ペトロニウスの命令にて動いておりまする」

 ペトロニウスはすらりと剣を抜き放ち、部下に顎で合図を送った。一斉に部下たちが剣に手をかける。

「貴様等、そんなことをして許されると思っておるのか。天罰じゃ、天罰が下るぞ! 天罰てきめんじゃぞ」

「明日にでも大地が沈もうかという昨今、もはや天罰をおそれては生きてはおりますまい―――それは猊下とて同じことでございましょう」

「ふん、護民官ふぜいが、偉そうに言いよるわ」

「猊下はただ、若い女を犯したいためだけにあのような預言をし、神に生贄を奉じると称して若い娘を集めたのでしょう」

「馬鹿な。あれはすべて、天への生贄なのじゃ。アムストロの神が娘を欲しておられるのじゃ」

「ならば、我々はそんな神など欲しはしない」

 ペトロニウスたちは巨大な神像に駆け寄ると、それを押し倒した。銅像は身長はペトロニウスの三倍ほどあったが、もともと不安定な形状であり、中ががらんどうだというのもあってか、それほど苦もなく倒れおちた。大音声を上げて、アムストロの神像が倒れ、はねまわる。

「何が、アムストロの神だ!」

 ペトロニウスは部下の持っていた斧を取り上げると、大きく振りかぶって、横倒しになったアムストロの神像の首をぶったぎった。神像は全身をそれぞれ別々に鋳造してつないだものらしく、首は意外なほど簡単に胴体から離れた。酒樽ほどもある銅像の首が、ガラガラと銅の鐘のような音をたてながら、転がってゆく。

「な、なんということを―――この罰当たりめが!」

 教皇は力無く崩れた。しばらく、うなだれたまま動かなかった。

「なんということをしてくれたのだ、神を恐れぬ不敬の徒め」

「ぬかせ、色狂いの呆け老人め」

 ペトロニウスは老教皇のしなびた裸体の背中に唾を吐きかけた。

「お若いの。天に唾する者は、それを自らの顔に受けるぞよ」

 教皇サバカレーはペトロニウスにむかって唾を吐きかえした。ペトロニウスはそれを軽やかに避けると、剣を抜いて教皇の顔に突きつけた。

「猊下も、お若いですな―――とても八十歳とは思えませぬ」

「ああ、神をないがしろにする不貞の輩どもめ。愚かなり、ああ、愚かなり。末世なり」

 教皇サバカレーは微かなる笑みを浮かべ、天を仰ぎながら静かに立ちあがった。

「そうだ。みんな滅びて行くのだ。もうすでに神の審判は下されておる。どうせもうすぐ、みんな水底に沈むのではないか。貴様等も、あの娘も、わしも。そりゃ、わしもあの船に乗りたかったぞ。だが、わしは身を引いたのだ。自分からの。なかなかできることじゃないわいな。それもこれもみな、地上に残された人々のため、うぐ―――」

 そこから先の言葉はなかった。教皇は首の根をつかまれ、アムストロ神の巨大な頭の中に放り込まれたのであった。

 

 ぎりぎりと、投石機(カタパルト )の発条(ばね)がひきしぼられてゆく。

「投石機(カタパルト)、用意、よし」

 護民長官ペトロニウスは、力の限り叫んだ。

「放て!」

 今、海底に沈みゆく国レムリアの護民官が、天への失望と怒りと冒涜を込めて、投石器で放ったアムストロの神像の首は、大きく放物線を描きながら飛び続け、彼方の海面へと静かに滑らかに吸い込まれていった。

 雨は、さらに強くなるばかりであった。

                          (平成十年一月)

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