『imbt2』
十一歳の時だった。ぼくは母に連れられて見知らぬ街に行った。公園で一人で遊んでいると、トンガった目をした奴と出会った。外国人みたいな雰囲気をもった年上の少年だった。見たこともない、赤いような茶色いような、つめえりの学生服をきちんと着ていた。きっとこの近所の中学だろうと思った。
ずっと一人で立っていて、なんだかとてもさみしそうに見えたのでいっしょに遊ぼうと言うと彼は言った。
「遊んでやってもいいが、一つだけ条件がある」
「なに?」
「ぼくは命令されるのがキライだ。ぼくに指図するな」
照れ隠しだとしても、おかしなことを言う奴だと思った。僕には別に彼に命令する気などなかったから、僕は素直にうなづいた。すると一転して彼は本当にうれしそうに笑った。今でもその時の笑顔は思い出すことが出来る。それほどに印象的な変わりようだった。
「オーケイ。それじゃあ、ぼくが珍しい遊びをおしえてやろう」
それから、彼と僕は真っ暗になるまで二人で遊んだのだった。
遠くから六時を告げる町内放送が聞こえてきた。僕の母親が用事を終えて迎えに来る時間だった。僕はなんだか彼に母親を見られるのが恥ずかしかったので、母親が来る前に彼の前から消えようと思った。なぜだかしらないが、彼と母親が同じ世界に存在してはいけないような気がした。そうなると、彼にとっても、僕にとっても神聖なものが失われるような気がして、僕は彼らの接近遭遇をなるだけ避けるべく努力しようと決めた。
「もう帰らなきゃ」
この楽しい気分を打ち壊す一言を僕の口から発するのはすごく辛かったけれど、意を決して言った。
「そうか」
薄暗くて、もう何も見えなかったけれど、声で彼の気持ちがわかったような気がした。それはおそらく、僕とおなじ気持ちだっただろう。とうとう来るべき瞬間が来たのだ。この数時間で僕たちは幼なじみのように仲良くなっていたが、こればかりは仕方がなかった。
「じゃあ、最後にぼくがいいことを教えてやろう―――ちょっと来てみろよ」
彼は僕を電灯の下に引っぱってきた。しゃがんで、木の棒で地面にアルファベットを書いた。『imbt2』と書いてあった。
「読めるか」
「―――アイ―――エム―――ビー―――ティー―――にい」
「にい、じゃない。ツーだ」
「アイエムビーティーツー」
「そう。これは秘密の合言葉だ」
「合言葉?」
「そう。『精神的貴族』を志す者の暗号みたいなものだ」
彼は満足そうにうなずいたが、僕はわけがわからなかった。
「『imbt2』ってどういう意味? 『精神的貴族』って何?」
「おい、君、質問は一つずつにしてくれよ」
僕の質問責め攻勢を人差し指一本でさえぎり、彼はニヒルっぽく笑ってみせた。
「『imbt2』ってどういう意味なの?」
僕は地面に書かれた五文字を指さしながら、最初の疑問を訊いた。
「知らない。ぼくも何年か前にある人に教えてもらったんだ。合言葉だといえばそうだし、まあ呪文といえば呪文かもしれない」
「呪文?」
「この言葉を挫けそうなとき、苦しいときに唱えれば不思議と力が湧いてくる。誇りを失いそうになったとき、怠惰な流れに押し流されそうなとき。寂しくて他人を頼ってしまいそうなとき。周りの人間の愚かさに冒されそうなとき。自分自身が信じるに値しないと思いはじめたとき。そんなときに、この呪文を唱えるんだ。何度も何度もね」
彼は足で地面に書いた文字を消しながら答えた。
「じゃあ、『精神的貴族』って何?」
「そうだな。たとえば支配なきアリストクラット。いかなる革命によっても決して揺るがされることがない普遍的思想階級」
「はあ」
「『精神的貴族』たらんとする者とは、ようするに―――自分が自分であることに誇りを持ち、それを汚すことがないように自分を律することを怠らない精神を持った人間のこと」
僕はよくわからなかったが、なんとなくかっこよかったので納得したことにして、最後の質問を彼をぶつけた。
「でも、どうしてぼくなんかにそれを教えてくれるの? ぼくは貴族じゃないよ」
「『精神的貴族』に貧富貴賤の別は関係ないからね。あるのは魂の尊卑だけさ。ぼくは、君になら教えてやっても悪くないと思ったから、合言葉を教えた。君にも『精神的貴族』に属すべき人間の素養がある」
「じゃあ、ぼくも『精神的貴族』になれる?」
「ああ。常に合言葉を忘れないようして、志を常に高くもちつづけていればいつかね」
彼は右手を差しだした。僕も右手をのばして、握手をした。こんなに意味ありげな握手をしたのは生まれてはじめてだと思うとうれしくなった。同時にいま確かに存在して僕の手を握っている彼と、きっともう二度と会えないのだという、確信めいた考えが僕の心を悲しく落ち込ませたて、すこし胸の奥のほうが苦しくなった。
「今日は楽しかった」
彼の笑顔はどこかさみしそうだった。それを見ると僕もなんだか悲しくなってきた。
「すごく楽しかった―――おれも」
涙声になりそうなのを我慢しながら、僕は言った。その瞬間、彼の握手の手の動きが止まった。
「あれ―――」
彼はすこし質が違う声でつぶやいた。それは別段恐ろしい声というのではなかったが、僕を見る眼がなにか僕を軽蔑し、僕に対して失望したように僕には見えた。だから、彼の声がなんだかこわい声のように思えたのだった。
「ふうん、君も自分のことを『おれ』というんだな」
「え、まあ」
僕はなにか不安でこころもとない気持ちになって、あいまいに返事した。彼はなにか深い考え事をしながら、僕の眼をじっと見ているようだった。僕は自分がなんだか非難されているような気がして、その沈黙がひどく不透明で危なげなものに思えた。
「そうか―――まあいいや」
いっしゅん何か言いたげに見えたが、それをのみこんだようだった。彼はさっきと同じさみしげな笑顔に戻った。再び僕たちは大きく握手をした。
「ただ、ぼくはね―――ぼくは絶対に自分のことを『おれ』とは言わない。なぜなら、ぼくは『おれ』ではないからね。つまらないことだと思うかもしれないけど、これは実はぼくの魂のアイデンティティに結びついた重要なことだからね」
彼は静かに言った。僕の顔は見ずに、さっきまで遊んでいた公園のどこかを見つめているようだった。
「ぼくも―――本当はあんまり言わないんだ―――」
僕は正直に答えた。嘘じゃなく、本当のことだ。
「そうか」
彼は僕の顔を見た。
「でも、友達の前で無理して自分のことを『おれ』と言ってみることはあるよ。みんな自分のことをオレって言うから。でも、いうたびにちょっと違うかなって思う」
「無理して『おれ』はやめなよ。君には似合っていない。無粋だし、尊大な感じがする。だいいち、ぼくたちのような『精神的貴族』を目指す者にはふさわしくないような気がするんだよ、僕にはね。あくまで謙虚で清新、詩的にして気高い『ぼく』じゃなきゃいけないよ」
「そうだね―――そうする」
遠くで母親の声が僕を呼んでいるのが聞こえた。タイムリミットだ。彼の世界に別れを告げて、母親の待つ世界に帰らなければならない。
「さよなら。ぼくも―――楽しかったよ」
僕はさっき言ったことをもう一度『僕』の言葉で言い直した。
「じゃあな。縁あればまた会おう。合言葉、忘れるなよ」
「imbt2……」
「imbt2……」
彼は言うと、電灯の照射の中から飛び出して、闇の中に走り去った。僕には彼の後ろ姿が、迫り来る僕の母親の声から逃れて行くかのように思えた。
僕はそのまま街灯の下に立って、彼をのみこんだ闇を見つめていた。
「ごめんねヒロくん、遅くなって。何して遊んでたの?」
大きな荷物を持った母親が彼が消えていった同じ闇の中からあらわれた。
「べつに……」
小走りしてこっちに近づいてくる太ったからだも、聞きなれたやかましい声も、いかにも洗練されていなくて、ひどくこっけいでなものに思えた。
僕は『彼』の属する世界がいまここに終焉を迎えたのだということを実感した。そして、僕は―――来るべき下世話な世界に僕は戻ってゆかねばならない―――僕はその世界の中で『精神的貴族』をめざしてゆけるのだろうか―――そのうち僕はこの公園での数時間も忘れてしまうのだろうか―――彼の教えてくれた珍しい遊びも―――彼の顔も―――彼の声も―――あの合言葉も―――それだけは―――あの五文字の合言葉だけは忘れてはならない―――精神的貴族の事も―――いつか彼と再会したときのためにも。
とらえようもなく流れてゆく切ない不安にもてあそばれてゆくのを感じながら、もし『彼』ならこんなときどうするのだろうかと考えていた。
「もう大変だったのよ。トモフミ義兄さんが悪いのよ。義兄さんったらね……」
僕はもう母親のまくしたてる言葉など聞いてはいなかった。
(imbt2……)
そうだ、僕にはこの言葉があるんだ。
(imbt2、imbt2,imbt2……)
僕はさっそく、その言葉を唱えていた。僕も彼のように『精神的貴族』を目指して生きるんだ。そう、『ぼく』なんだ。『おれ』でも『わたし』でもない、『ぼく』でなくっちゃならない。『ぼく』は偽りのない『ぼく』自身として、『精神的貴族』を目指して生きて行くんだ。彼のように。
「ああ、疲れた。ちょっとヒロくん、これ持っててくれる」
母親が差しだした包みを僕は無言で受け取って、僕は母親について歩き出した。
(imbt2imbt2imbt2imbt2imbt2imbt2imbt2……)
不思議と不安や悲しみが癒されてゆくような気がした。
(平成九年二月二十三日)
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