g:エルシネ2


 今は『陰陽師』で有名になってしまったSF作家・夢枕獏が、まだ「エロ・グロ・バイオレンスの旗手」としてしか語られなかった頃のこと、彼は著作の中で「実はアインシュタインの有名な公式《e=mc2》と、般若心経の《色即是空 空即是色》は同じことを表しているのだよ」てな事を言っていた。確かにアルバート・アインシュタイン博士が残した相対性理論に係わる有名な公式e=mc2 は今や、ある種の呪文のように無教養な我々の間にも浸透している。というか、実際にこの「e=mc2」を呪文として利用していた新興宗教団体だってあったのだ。

 大阪と和歌山の境界線あたりに「ひとついし学団」という新興宗教団体の本部があった。新興教団で、教祖がオカルト季刊誌の『レムリア』の巻末近くに二ページの悩み相談コーナーを持っていた。自称「宗教科学者」是石有一博士は、どのような霊障も悪霊も宇宙の根本原理をあらわす言葉「e=mc2」をただ一言を唱えるだけで退治できるのである、と毎回合言葉のように断言していたのを憶えている。

 少年時代の私は、この雑誌の熱心な愛読者であって、この連載も真剣に読んでいた。最近、部屋を整理していて当時の記事を15年ぶりに目にする機会があったのだが、15年ぶりに読んでみると、当時とは別の意味で感心させられた。中でもこの「e=mc2」で悪霊退治というのも、実のところなかなかいいところを突いているのではないかとも思ったのだった。

 「南無阿弥陀仏」にしても真言にしても、もともとは偉大な存在を讃えるための言葉であるが、そのうちにその言葉自体に偉大な存在の加護を得たり、魔を滅ぼす力が顕れると考えられるようになった。同様に我々にとっては単なる数式である「e=mc2」が「ひとついし学団」においては宇宙の根本原理をあらわす真理であり、「神の記号的顕現」と考えられている以上、そこに呪力を生じてもなんら不思議はない。それが是石博士の唱える説であった。この「ひとついし学団」がもう一つ、呪文として使っていた法則があった。g係数、あるいはエルシネ法則と呼ばれる、次の公式である。

 《g = Lsin ε2》

 実は、この方程式は数学や物理学の公式ではない。従って、いかなる教科書にも載っていないのである。50年代のサイエンス・フィクションに登場した架空(デタラメな)の公式であった。

 アメリカのSF作家、アイザック・S・タイナーは今風に言えば「引きこもり」の青春時代を送った人であった。衒学的ともいわれる彼の作風からは意外だが、学校教育はほとんど受けていない。彼の知識のほとんどは、自宅にあった古いエンサイクロペディア・ブリタニカによるものだったという。タイナーは19歳で《ウィザード・テール》誌でデビューして以来、数多くのSFやミステリーを書き散らした。いわゆる「パルプ作家」であったが、H・P・ラヴクラフトとの出会いを機に次第にオカルトにのめりこんでゆき、超自然現象、科学技術、東洋思想と開拓精神などをごたまぜにした、哲学大系いわゆる「タイナー世界」を確立するに至るのである。やがてタイナーは科学学術団体ISTを創立し、アインシュタインの相対性理論を『崇拝』して、宗教的精神が物質に及ぼすエネルギーについて研究を始める。

 アインシュタインが永眠した1955年、タイナーは長編『エルシネ・オーバードライブ』をアインシュタインに捧げている。この作品においてタイナーは、後に彼の作品の代名詞となる「禅氣撥働機」(Zen Drive Engine)を登場させている。禅僧の頭に「サトリ・マトリックス変換装置」を取り付け、「悟り」が生み出す精神エネルギーを超光速航行の推進力とする、恒星間宇宙船を登場させている。その理論は作中ではブラックボックスにされており、詳しい理論は明らかにされなかった。ただ、g係数あるいはエルシネ法則と呼ばれる先の法則がガジェットとして使用されたのであった。(ちなみに、宇宙船の名前《エルシネ2世号》はこの式を強引に読んだものである。)

 タイナー自身がモデルであると思われる主人公アストン博士は、荒廃著しい地球を捨て、第二の地球を求めてアルファ・ケンタウリをめざすのだが、そこに至るまでが前途多難であった。日本での(間違いだらけの)禅僧探しに始まり、コネチカット州の山の中での秘密ロケット基地の建造、秘密を知ったCIAおよび謎の黒服軍団との基地をめぐる三つどもえの諜報戦と、WIB(Woman in black)との愛憎渦巻く激しいロマンスと、あらゆるジャンルを書き散らしてきた彼らしく、軽妙でチープで背徳的な、いわゆるタイナーテイストにあふれており、読者を飽きさせない。長い道のりの末、主人公が青い植物の生い茂る、ACT2(アルファ・ケンタウリτ星系第2惑星)に降り立つエンディングは異様に盛り上がり、これでもかとばかりにカタルシスを感じさせる名場面に仕上がっている。古き良きSFがお好きな方なら、一読の価値はあると思う。金星社SF文庫に入ったあと、サンリオ文庫に入り、ハヤカワに入った(いずれも絶版)ので、古本屋にならあるかもしれない。もう一度、おすすめしておく。

 この作品の発表と時を同じくして、タイナーの言動はどんどんエキセントリックになってゆく。独自の宇宙観をベースにした終末論を説き、現実に彼はミネソタ州の山奥にロケット(のようなもの)を建造し、実際に宇宙へ飛び立つために多くの信者を集める新興宗教の教祖となった。1978年に死ぬまで精神修行による宇宙旅行の可能性を説き続けた。彼の死後、カリスマを失ったISTは内部分裂を繰り返し、結局は自然消滅してしまったという。金色のロケットは朽ちるに任されていたが、いつの間にか姿を消した。分裂した組織の幹部が運び去ったのだという。

 この夏、私は和歌山県境に近い、大阪最南部に行く機会があったのだが、その際、足をのばして、今は廃墟となっている「ひとついし学団」の跡地に行ってみた。柵を乗り越えてはいってみると、所有者不明のため立ち入り禁止となった教団施設の荒れ果てた遊園地のような廃墟の中に、ひときわ目をひく黄金のロケットが立っていた。機体には日本語で「えるしね2」とかいてあるのが見て取れた。そうだ。「ひとついし学団」の是石有一は、ISTの幹部であり、その教義もまた、タイナーのものを濃く受け継いでいるのだった。私はもしかしたら、これはミネソタの山中から忽然と消えたISTの宇宙船なのだろうか、と思った。

 いずれにせよ、遙かアルファ・ケンタウリを目指して飛び立った金色のロケット、《エルシネ2世号》は、いまもなお、人知れず南大阪の山の中に、静かに立っているのは事実だ。

2004.11.04 

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