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就農備忘録 #1 会社員時代
ー農家になる前の大阪では会社員だったー
転職は2回した。
大学は奇跡的に入れた。
僕の行ってた高校は現役大学合格者はごくわずかで浪人してチラホラいるくらいのレベル。
そして僕はその高校で平均以下。
入れるはずがなかったが高2からお塾に通ったのさ。
経済学部経済学科。もちろん2流?3流?大学。
でも僕にはめちゃくちゃ高値の大学だったが入試で奇跡がおきた。
たぶん100点だったのではないか。
自己採点で厳しく見積もっても80点は超えていた。人生初の高得点をたたき出しのだ。
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そしてギリギリ卒業して最初に就職したのは自転車小売り販売の会社。
特に自転車が好きなわけでもなくアレコレ就職活動した結果で自転車屋さんに就職した。
なぜこの会社にしたのかいろいろ理由はあったように思うが、鮮明に思い出せるのは転勤がなかったから。
地域密着型社員という考え方が良かった。
働き始めると夜はだいたい夜中12時ごろまでお店にいた。ずっと仕事をしていたわけでもなかったが帰れる雰囲気ではなかったので合わせて居残っていた。
ひ弱な僕はどんどん疲弊していき、5ヶ月くらいしたある日、転勤を言い渡された。
え?え?ええ!?地元密着の会社でしょ!?なんで?
何やら社長が「社長会」なる集まりに参加するようになって若い従業員は親元を離れさせたほうが良いと聞いてきたらしい。
心は決まった。大阪離れたくない!辞表。
今なら第二新卒枠で就職活動できるだろう。
次に入った会社は医療器具メーカー。ごめんカッコつけた。
医療にも応用される整水機器メーカー。ごめんまだカッコつけてる。
浄水器の会社。
怪しいと、今では思う。
でも東証1部上場まで果たした会社。入社当時の社風は昭和の根性論が根強く残っていた。
そこで個人営業をした。
ここではそれなりの成績だった。会社の花形の営業部とは違い2番手の営業部なので注目は浴びにくく、その中でも2位の成績を出し続けた。
目立たず怒られない位置が心地よかった。
ところが1位の先輩が花形の営業部へ異動しちゃった。やべー。
ガラにもなくリーダーみたいなことやらされ、その気になってきた。この部署は俺が引っ張ってやるみたいな気持ち出始めたのだ。
後輩は敬ってきやがるし僕の鼻はビンビンに伸びて上司を刺しまくった。
転勤を言い渡された。
心は決まった。大阪離れたくない!辞表。
俺はできる奴。どこでもやっていける!
27歳の転職活動は絶好調!超有名企業や老舗大企業の内定決まりまくり。まだまだもっといい会社に内定もらえるはず、やりたいことが見つかるまで転職活動だーい!
ところが転職活動中に誕生日を迎え28歳を迎えると急転直下。
急に面接の雰囲気が変わった。あなたの能力は?あなたを雇うメリットは?
能力を求められ、若さが売りではなくなったのだ。不採用、不採用。
何とか拾ってもらえた会社は広告会社。
ここでは法人営業をした。
社内の人もお客さんも頭がいい人ばかり。まったく話についていけなかった。日本語がわからなかった。
必死に仕事してる振りをした。
何をしていいのかわからなかった。
社内や客先でも理解してますという顔をした。
でも絶対バレるのはわかっていた。
いやたぶんすぐバレていた。
だからあえてヨレヨレのスーツを着た。
僕はダメなんです、だから優しくして。もしくは触れないで。というアピール。ダメ人間を雰囲気から作った。
残業は禁止の会社だったが仕事が終わらずだいたい終電。表情は無くなっていった。
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家族が言うには当時の僕は睡眠改善薬「ドリエル」を飲まないと寝れなかったらしい。僕自身そのことは忘れていて覚えていない。
帰宅の電車で立って乗っていて寝てるわけじゃないのに最寄りの駅を乗り過ごしたこともある。2,3駅を過ぎて気づいた。人生で初。
家族が声をかけられないくらい負のオーラを纏っていたそうだ。
とにかくため息しかでなかった。
もう転職はできないだろうと思っていた。29歳で3社も渡り歩いたのだ。それもステップアップじゃない。いくら僕でもヤバいのはわかる。もう人生終わった。どうやって生きていけばいいのかわからない。何をやってもやりたいことが見つからない。こんなにも自分ができない人間だとは思わなかった。
どんだけ見積り甘いねん自分!
あの時の自分自身を自己評価するものは、
「年収」「仕事内容」「社内の立ち位置」「同年代との比較」だったのだと思う。
やりたいことのない平均以下の僕の評価は周りの環境に依存するのだ。
ものさしは自分の中にない、外にある。
仕事内容は、良い仕事だと思うがまったく向いていなかった。
社内の立ち位置は、下の下。
同年代との比較は、できたもんじゃない。
年収は、お金をいただけるだけありがたい。ほぼ何もしてないないのだから。
そんな僕の自己評価は最低。消えてなくなりたい。恥ずかしい。
ー大阪での会社員時代はそんな感じで終わったー
いろんな形の営業を経験できたことや、会社組織での一員になることなど大いに勉強になった。
会社が変わればできる人できない人は簡単に変わる。一つの会社でできる人も他の会社ではできない人になり得るのだ。そんなことも学んだ。
なにより、自分のポテンシャルを思い知った。
虚勢を張ったって自分は大きくならない。
大きく見せる必要はない。
ダメなもんはダメ。
まずは自分を知るところからだということを学べた。
やっと人としてスタートラインに立ったのかな。
さて、ではどうしよう。
ダメなやつとして鬱々としながらサラリーマンを続けようか。
いやもう心が保たないよ。
なんか、なんか、僕にください。すがるものを。心の支えになる杖を探さないと。
そんな時に、高校時代の同級生から連絡が入った。東京から仕事を辞めて帰ってきたから呑みに行こうと。
僕と同じくらいダメそうなやつがいた。
続きは次回へ。