きわダイアローグ05 手嶋英貴×向井知子 1/6
2020年秋、龍谷大学法学部教授の手嶋英貴先生(インド学/仏教学)にご案内いただき、比叡山の門前町・坂本、日吉大社、比叡山の無動寺谷をご案内いただきました。
朝、大津京駅で待ち合わせ、比叡山を遠景に見ながらお話を伺いました。比叡山坂本駅に移動し、そこから日吉大社の参道を通り、途中迂回して街中の水路を辿ります。そして、山王祭 *1の「宵宮落とし」の舞台となる大政所の脇を通り、日吉大社の境内に入りました。日吉三橋、山王鳥居、神猿さん(実際に猿がいる)の前を通り、西本宮の境内に参詣します。宇佐宮、白山宮、八坂社や北野社など沢山のお社の前を通ると山王祭の神輿収蔵庫があります。それを越えたあたりが、西本宮と東本宮との合流地点となり、日吉大社の奥宮のある八王子山へと続く急な石段が現れます。石段の両脇には、奥宮の二社(三宮と牛尾宮)の遥拝所(お社)が二つ並んでおり、石段から本格的な急勾配の山道を30分ほど歩くと八王子山奥宮(牛尾宮と三宮)に到着します。奥宮で琵琶湖を臨みながらお話を伺い、そのあと下山、東本宮の境内前を通り、坂本の町に戻りました。
午後は、ケーブルカーで上がり、延暦寺の領域に入ります。(根本中堂などがある東塔エリアには行かず)千日回峰行の中心的お堂である明王堂のある無動寺谷へと向かいました。閼伽水(あかすい)の前を通り、行者のために丁寧に整えられた山道を辿ると明王堂に到着します。明王堂から弁財天の小さなお社を通り、再びケーブルカーで坂本の街に下山しました。
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1. 文化の集積としての比叡山
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手嶋:比叡山には2つ高い峰があります。展望台みたいなものが見えるほうが小比叡(おびえ)、もう一方が主峰で大比叡(おおびえ)といいます。京都から比叡山を見ると、大比叡が小比叡の陰に隠れて見えず、展望台が山頂のように見えます。比叡山という山が歴史上最初に現れるのは、平城京以前の大津京という都を、天智天皇が築いた時代なんです。そこで一番都から近く高い山ということで、その頃から、霊峰として祀られているようなんですね。たまたま山の向こうに、あとから京の都が遷ってきたので、実際には比叡山という山の正面は琵琶湖側になります。
それから、山の中腹には瓦屋根の無動寺谷明王堂が見えます。そこは、比叡山の千日回峰行 *2 の「堂入り」を行う場所になります。同じく見える黄色い建物はケーブルカーの駅になります。右側に見える、傾斜したような山はもたて山です。平安時代の女性が腰の後ろにつける上着のような「裳」を掛ける際、裾が流れるように見えるのに似ていることからこの名がついたそうです。そのほかにも、この辺りの山にはそれぞれ名前がついています。単なる山ではなく、神さまが祀られていたり、あるいは伝説が残っていたり、目に見えない文化的な集積が詰まっている山々なんですね。
向井:比叡山は京都の鬼門などと言われることが多いですが、もともとの成り立ちでは、そういう意図はなかったということですか。
手嶋:平安京が、湿地帯で人が住まないような京都盆地を開墾して都をつくられた結果、たまたま東北に比叡山っていう山があったというだけだと思います。最澄は、奈良時代の後期くらいから比叡山に入って修行をしていましたが、平安京が造られて以降、この山がたまたま都の鬼門にあり、また最澄がすでにお寺を開いていたということもあって結果的に発展しました。
向井:2017年に北欧を取材した際に、北ノルウェーでは先史時代の人々が、世界が空と海と大地の三層からなっていると考えており、それらが交わる水ぎわの岸壁に岩絵を描き続けてきたことを知りました。人々が暮らしと自然と向き合う場所として、岩絵が描き・彫り継がれてきている。大津京を開いた当時の人々もやはり琵琶湖の水ぎわを意識して、比叡山の存在を考えていたのでしょうか。
手嶋:平安京以前には完全に琵琶湖側が、この辺りの文化的・政治的な中心地でした。文化を伝えた渡来人たちが住んだのが、主にこの琵琶湖周辺でした。琵琶湖を通じて、船で効率的に北の敦賀と交易ができたんですね。敦賀の辺りは、朝鮮半島や大陸から人や物が運ばれてくる中心地だったので、そことつながる琵琶湖周辺は大陸に近いエリアとなりました。そのせいか、あちこちに小さい古墳もたくさんあります。
わたし自身は関東生まれ関東育ちなのですが、関東で山というと、自然があっても、山は山でしかありません。そこで昔何があって、それがこういうことにつながったという物語のようなものはあまりないですよね。大きさとしては、比叡山は大したことない山ですが、いわゆる歴史的な物語の蓄積みたいなものが異様にぎゅっと詰まっている存在ではあります。山の中のさまざまな場所で、ざっと100以上、「昔こういうことがあった」という伝説が残っています。
向井:では、空海が高野山を開山したのとずいぶん成り立ちが違うということでしょうか。
手嶋:そうですね。高野山は、もともと人が住んでいるところではなく、空海が何らかの形で見つけて、下賜してもらってお寺をつくった場所です。もともと大きなお寺をつくって道場にするという意識が空海にはあったので、かなり広い平地を手に入れたんです。結果として、いろんな建物や施設を、いわゆる高野山盆地のエリアに集める形でつくりました。一方、比叡山は、もともと神さまの山で禁足地でした。人が入ってはいけない、神聖な場所。最澄はそういった神聖な場所で修行をして、ひっそり自己研鑽したいと山の中に小さいお堂をつくったわけです。そうやって、最澄が修行をしていたところに、平安京があとからやってきた。そして、たまたま比叡山が近くにあるということで、庇護を受けて発展するわけです。比叡山のもともとの地形としては、平地らしい平地があまりありません。発展するにしても、平地が少ない地形そのものは変えようがないので、ちょっとした平地を押し広げた結果、山中にばらまいたようにランダムにお寺や施設がある形になってしまったんですね。
向井:神仏習合なのも、自然の神さまが先にいらしたからなんですね。
手嶋:もともと、比叡山は神さまの山として崇められていたということが、神仏習合の理由の一つです。それから、最澄さんが山で修行をするときに、山の神さまたちが「あなたはいいことをしようとしているから応援する」と言ったという伝説が古くから残っているんですね。その結果、仏教のお寺ではあるけれど、それを庇護する神さまも祀られているという関係もあり、発展していきました。
向井:日本という国自体が渡来人が行き来することで、成り立っていった国なわけですよね。もともとの土地の持っている意味や地形と自然に結びつき、また、そこに人々の往来によって異なる文化が混在して根付いていったのが、大津京や比叡山の存在だといえるのでしょうか。
手嶋:そうですね。関東と比べると、琵琶湖周辺は、奈良盆地に住んでいた人たちも含めて、早いうちから渡来系の人たちが普通にいて、地元の人たちと混交していたと考えられています。渡来人が、そんなに特別な存在ではなかったのではないでしょうか。今では日本の神さまと思われているものも、起源を辿ると、古くには渡来系の人たちが祀っていた神さまだったかもしれない。そのくらい、渡来系や地元系というように、はっきりは区別できない状態だったのではないかと思います。
向井:現代に比べて、ちゃんと混在していたということですね。
手嶋:そうでしょうね。違いがあるとしたら、渡来系の一部の人は、それとわかる姓を持っていました。でも、その人たちだけで婚姻して、子孫をつくっていたわけではないでしょうし、そういう意味では、実態は、地元の人たちと普通に交流して、根付いていたんだろうと思います。
向井:正直、高野山に行ったときは、違和感がありました。立体曼荼羅があって、邪念も含めてイメージを否定しないことは面白いと思いましたが、ずっと緊張しっぱなしで、苦しかったんです。良いイメージも、悪いイメージも、ヴァーチャル・リアリティの立体感を持っているというか。そこにある自然と本当に交流しているというよりは、人工的なものをものすごく感じたんですね。
手嶋:密教自体に、非常にシンメトリカルな世界を具現化するようなところがあります。それを日本のなかで実現するというところは、当時において非常に特色があったと思います。奈良時代までの仏教というのは、基本的には外国の宗教であり、東大寺や興福寺は、普通の暮らしをしている人たちからしたら、ある意味でテーマパークのような存在だったと考えられます。非日常の空間という意味では、ディズニーランドみたいなものとでも言ったらよいでしょうか。普通だとありえないようなシンメトリカルな構成で、巨大な構築物がある。空海さん自体が人工的な空間をつくるプロジェクトリーダー的な才能のあった人なのか、自然を活かし、溶け込むようなものというより、自然にはどいてもらって、そこに人間の構想したものをなるべく精緻に具体化することに長けていたのだと思います。高野山の地形は、八葉の蓮華に例えられることがあります。蓮華というのは、仏さんが座る台座ですから、山は蓮華座の役割を果たし、そこに仏の世界をつくる。そのため、自然と混じり合う、交錯し合うというより、周りを自然に縁取らせるような感覚だったのかもしれません。
向井:空海はプロジェクトリーダーみたいな人で、人間が構築する思想や世界観を実現した人だとすると、最澄はどのような人だったと手嶋さんはお考えでしょうか。
手嶋:人間性や人柄を直接に詳しく伝える文献もないですし、わたしも実際に会ったわけではないので、推測に過ぎないのですが……。空海さんは、念力の人というか、すごく神通力があって、自分がこうしたいという構想を実現する力の強い人だと思うんです。それに比べて、最澄さんは、力や念力が強いというよりは、むしろ、心根が純粋な人。その純粋さが非常に高度であったがために、本人がこうしたいと思って実現するだけのパワーはなくとも、運が巡ってきて周りが助けてくれるようなタイプだったと思います。最澄の生まれ故郷は大津なので、故郷の山である比叡山に帰って修行をしただけで、そこに大きいお寺をつくろうとは思っていなかった。最澄はもともと近江国分寺で出家して、ある程度修行をして、東大寺で正式なお坊さんの資格を得ます。それは今でいうところの霞が関の官僚になったようなものなので、普通ならそこで出世するか、近江国分寺に戻って出世するかの二択からその後を選びます。当時のお坊さんは国家公務員ですから、税金も免除され、優遇されるからです。ところが、東大寺にいても、ここでは本当の仏教の修行ができないと見切りをつけ、地元の山に籠ってしまう。せっかく霞が関で国家公務員になって、キャリアの道に踏み入ったのに、辞めて地元に帰ってNPOをつくったような感じとでも言ったらよいでしょうか。最澄さんは歴史に残らない人になっていた可能性すら、大いにあるわけです。のちに、天台という、それまで導入されていなかった中国の仏教に関心を持ち、招来するプロジェクトが生まれますが、それ以前の彼は、ただただ本物の修行をまっとうしたいだけだったんです。
それから、最澄さんは運がものすごくよかったと思います。都が自分のそばに寄ってくるというのは、ほとんど考えられないような幸運。都がたまたま近くに来て、1000年以上ずっとあったという環境は、誰も選ぶことのできない運命ですよね。また、後継者にも恵まれていたと思います。一代だけだったら、今のお寺も根本中堂あたりの切り拓いたところまでで終わっていたでしょうけれど、後継者で偉い人が出てくるたびにその人たちが新しい場所をつくった。五月雨式にそういう人が出てくるから、ばらまいたような配置で、山のなかにお堂が増えたわけです。最澄さんが籠られたのは、今の根本中堂。ここは、もともと山の中のちょっとした窪みみたいな場所だったのが、どんどん拓かれ、今は大きな根本中堂が建っています。
向井:お寺によって「本堂」と呼ぶところと「根本中堂」と呼ぶところがありますが、この違いはなんなのでしょうか。
手嶋:本堂を根本中堂という言い方は、基本的には比叡山延暦寺の呼び方です。ほかには上野の寛永寺や山形の宝珠山立石寺など、天台宗の限られたお寺だけでされる呼び方です。金堂(こんどう)という言い方は、南都仏教と南都系列と言っていい、真言宗の空海さんゆかりのお寺でされます。東寺などがそれに当たります。ですから本堂という言い方は、実は比較的新しいんです。中世より前に建ったお寺では、創建時から本堂という呼称を使うところはなく、法隆寺や薬師寺では金堂と呼ばれます。中国では、仏さんのいるところは基本的に仏殿と呼ばれています。
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撮影:向井知子
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*1 山王祭
791年、桓武天皇が2基の神輿を寄進して以来、1200年以上にわたり行われている、東本宮と西本宮の由来を辿りながら、天下泰平や五穀豊穣を祈る神事。3月上旬に奥宮に神輿が上げられ、山麓の東本宮まで大山咋神(おおやまくいのかみ)と鴨玉依姫神(かもたまよりひめのかみ)が遷る。桜の季節となる4月13日に行われる宵宮落としが、山王祭で最も華やかな神事で、翌14日には、山王七社の神輿7基が町内を巡る。
*2 千日回峰行
比叡山で行われる天台宗の回峰行の一つ。無動寺谷の明王堂をスタート地点とし、比叡山の峰々を7年かけて1000周し参拝する。5年700日の修行が満行すると、最も過酷といわれる明王堂での「堂入り」が9日間実施される。行者は、断食・断水・不眠・不臥(ふが)で不動真言を唱える。また、毎晩閼伽井まで山道を歩き、閼伽水を汲み、堂内の不動明王にお供えする。「堂入り」を満行すると、6年目はそれまでの行程に京都の赤山禅院までの道のりを往復する「赤山苦行」、その後さらに京都市中で寺社を巡拝する「京都大廻り」が加わり、7年目は再び比叡山内のみを巡拝する。
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手嶋英貴(てしまひでき)
1967年東京生まれ、中学卒業後、比叡山で小僧生活を送りながら定時制高校を卒業し、駒澤大学仏教学部でインドの思想文化を学ぶ。東京大学大学院修士課程(インド文学・仏教学)を経てベルリン自由大学博士課程(インド文献学)を修了、Dr.phil.。現在、龍谷大学法学部教授。
向井知子(むかいともこ)
きわプロジェクト・クリエイティブディレクター、映像空間演出
日々の暮らしの延長上に、思索の空間づくりを展開。国内外の歴史文化的拠点での映像空間演出、美術館等の映像展示デザイン、舞台の映像制作等に従事。公共空間の演出に、東京国立博物館、谷中「柏湯通り」、防府天満宮、一の坂川(山口)、聖ゲルトゥルトゥ教会(ドイツ)他。
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