きわダイアローグ07 埋立地のビオトープを歩く〈北九州市響灘ビオトープ〉3/4
3. 自分が住んでいる生息圏を歩く
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向井:最近里山って何なんだろうなと思っているんです。今の時点で、環境と共存していくためには、単純に昔に戻ればいいという問題ではないですよね。どういう規模のどういう生活がいいなど、普段お仕事をされていて考えていらっしゃることはありますか。
山本:なるべく近い距離は自転車で移動して、車の温室効果ガスは出さないようにするくらいでしょうか。公共交通機関が通っているところは、それで移動したり。環境に携わってる人間として、ちゃんとそういうふうなことを考えているかと言ったら、まだまだですね。
三上:わたしも車には乗らないんですね。ナワバリじゃないですけれど、このくらいまでなら行って帰ってきても疲れないなとか、これくらいが生活圏だなというのが、歩いているとわかるんですよね。
向井:このコロナ禍で、自分の生活圏をもう一回撮り直そうと思って、結構歩いたんですね。ビデオを回しながら歩くと、意外といろんな生き物が写っていることにきづきました。ハグロトンボやスッポン、カワウ、カワセミなど、東京にいても、生き物が生きているんだなと思ったのですが、それって、足元を見ていないとわからない。自分の生息地について知らないなと思いましたね。
三上:自分が住んでいる生息圏のなかで自分の食料をまかなえているかなど、そういう身体感覚を持っていると非常に敏感になってくると思います。生き物がいるのは、まだ救いですね。田んぼや畑が歩いて行ける範囲になくても、生き物がいるのならまだまだ大丈夫だなと。それらがいなくなったら引っ越そうかなと思っています。
わたしは、もともと生まれも育ちも北九州で、学生のときは山梨にいましたが、戻りたくて戻ってきました。植物のことを勉強し始めたのは、29歳からです。それまで生き物が好きだな、自然はいいなとは思っていたのですが、30歳になるのを機に、ちゃんとわかる人になろうと思ったんです。生き物はたくさんいるけれど、どれから勉強しようかなと考えたときに、まず生産者かなと。というわけで、植物、しかも一番身近な隣人ということで、都市雑草から学ぶことにしました。意識してから家の周りを改めて見たら、ほとんど外来種で、日本古来の草のほうが少なかったことに衝撃を覚えたんです。それでいろいろ調べてみたら、北九州は港町で古くから貿易が発展しているので、外来種がよそよりも入ってくるらしいということがわかりました。そういうところで暮らしていたのかと愕然としました。響灘ビオトープに勤め始めた当初にも草を見て歩きましたが、ここも外来種ばかりなんですね。でも、その中でもベッコウトンボもチュウヒも生きていられる。 外来種は良くないとは言うけれど、折り合いをつけられないこともないんじゃないかとも感じます。それから、ちょっと考え方が変わって、駆除ではなく、どう折り合いをつけるかにだんだん興味の方向が変わりました。例えば、ほどほどに草刈りをすると、根絶はできないけれども、日本の草のほうが多くなるんです。そうやって続けていくことは、昔の里山管理に通じるのかなと思います。昔の里山には、外来種はそんなに入ってきていなかったでしょうけれど、同じことをやっていたのかなという気がしますね。ほどほどに管理して、ほどほどに放置する。完全に管理しようとか、完全にほったらかしにすると、おかしなことになると。
向井:日本古来からの植物がいることがどう大切なのか、もしくは、外来種でも日本の自然に良い影響があるのかどうかを教えていただけますか。
三上:在来種ばかり自然と復活してくれたらありがたいのですが、どうしても外来種が混在してしまうんです。花が咲けば、ハチやチョウの食べ物にもなります。外来種だから、ハチやチョウによくないということは、別にないと思うんです。そういう意味では悪いものとは言い切れないですよね。特に植物に関して言えば、根絶しようとすると、労力ばかり取られて結局できないことも多い。そのことに躍起になるよりも、共存をはかって、むしろ緑地面積を増やすことのほうが大事なのではないかと思います。外来種が混じっていたとしても、土や草の面積を増やすほうが先なんじゃないかと。特別に害があるもの以外は大目に見てやるくらいの気持ちでいたほうがいいんじゃないと思うんですね。
向井:食料難になるとも言われていますけれども、どうなんでしょう。今、植物との関係ってすごく大きいと思うのですが……。直接ではなくても食関係の方々と一緒に、何かをされる予定はないのでしょうか。
三上:このビオトープはやはり原生的な自然ではないのですから、人間が関わってなんらかの経済活動とつなげていかないとならないなとは思います。ただ守るだけじゃ続かないですから。例えば池の端っこを薬の使わない田んぼにして、タガメやゲンゴロウに棲んでもらったり。昔、有機農家に手伝いに行っていたこともあるので、個人的にはそういう方たちに来てもらいたいなという気持ちはあります。ただ、あんまり掘ることができないので、もどかしさもありますね。
わたし自身は植物が好きなので、何が食べられるかなって、その辺の草を手当たり次第に食べたりしたんです。そうすると、毒があると言われるもの以外は、うまい・まずいを別にすれば、食べられないことはないものも多いです。ほったらかしにしていてもどんどんはびこるような雑草を、技術が発展して、食べられるようになればいいなと勝手に思っています。楽観的な予測ではありますが、空き地の雑草などが見直されて、非常に大切にされたら嬉しいなと思います。
向井:氷河が溶けたり、森が焼けたりというニュースを見ても、向こうの世界の話という感覚がありますよね。自分の家の周りを歩いてみたらわかるという話をされていましたが、一人ひとりの実感が全くないと思うんです。いま取り組んでいるきわプロジェクトでも、一人ひとりの五感を使いながら、自分が自然にどういうイメージを持っているかといったことを発想してもらって、自分と自然とのつながりを見つけてもらうってこともしたいと思っています。例えば食だとわたしたちの口に入るので実感がある部分なわけですが、そこと環境で起きていることがつながりにくいですよね。みなさんも、同じようなジレンマを感じてやられていると思うんです。経済を考えないと人間の生活の近くに来ない。アート系でも、経済的に回っていたり、説明がうまいものやわかった気にさせるものが重宝がられたりということがあります。ただ、本来はわからないものがあることが重要で、そういうことを感じ取れるような感受性が人間から失われているのかなと感じています。お二人は、 どういうときに自分の生活の中に自然があると感じられますか。
山本:歩いている途中にアスファルトに雑草が生えていると、こんなところによう種が飛んできたなと自然を感じますね。人工物の隙間に、頑張って花や葉っぱを広げて、生き生きとしている姿にはそう思います。
向井:わたしがびっくりしたのは、家にアゲハチョウが入ってきたとき、生き物が好きなはずの息子がそれに触れなかったこと。毎年自然の中に連れて行っているほうだと思っていたのに、日常にいないからなのかしらと。わたし自身も東京生まれ東京育ちなのですが、別に昆虫が好きとか、そうではなくても、子どもの頃は普通に生き物が身近にいる生活がありました。今、コロナの影響でなんとなく東京の空もきれいになった気がするんです。久しぶりに庭ですごく大きなガマガエルを見たり。ちょっと人間の活動が落ちてくると、ちゃんと生き物が戻ってくるんだなと思いました。
三上:やっぱり歩いてみると、想像しているより結構いろんなものがいるなと見えてきますよね。答えは出ないのですが、この生き物がここにいる意味はなんだろうとか、自分がすれ違ったことにはきっと何らかの縁があるんだろうなとか考えたりもしますね。ただ歩くだけではありますが、そういう経験が多いか少ないかっていうのも結構影響してくるのではないでしょうか。
山本:現代の人には何もしないで歩く、何もしないで待つという時間が少ないのかもしれないです。私は電車の待ち時間に、駅のホームにやってくる小鳥を見たりしているんですが、みんな携帯電話を見ていますもんね。それから走るときも、音楽を聴かないようにしています。集中力が音楽に全部取られるので、自然の音を拾うようにしているんです。都会に住んでいる人が、週末は街から外れたところに行きたいというのに近いのかもしれませんね。
向井:待つことをしないと見えてこない、聞こえてこないものがあるということですね。
何もしないでボーッとしているときに眼に映るもの、耳に入ってくるものというのは大切だと思うんですね。そういう身の回りの場所との繰り返しの出会いの中で、自分で想像したり、妄想したり、夢想したりすることができるのではないかと思います。
そういう意味でも、この響灘ビオトープは、自然と人間の生活のつながりを想像するための場所として大切だなと感じます。風車が回り、草がたなびく風の中でずっと見てられる、耳をすましていられる。草むらの中に潜んでいる生き物たちの姿が見えなくとも気配を感じ、想像することができるし、きっと遠くの自然にも想いを馳せることができる。わたし自身は生き物に関わることを専門としているわけではないですが、自然などの外の世界と自分の暮らしが交わるような場所をつくりたいと思っています。用いている手段は人工物である映像をつかった場所づくりですが、それをボーッと眺めるなかで、人が自分と外の世界のつながりを想像するようなことが大切だと思っています。
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