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きわダイアローグ12 齋藤彰英×向井知子 2/3

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2. 自分の感覚を想起させるためのスイッチ


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向井:わたしが大学に入った頃って、美大全盛期だったんです。めちゃくちゃ絵がうまかったり、つくるのが何でも上手だったりする同級生の中にいたからか、わたし自身は手を使わず、目の世界に行ってしまいました。例えばわたしがスタディをすると、立体的なものもできないだろうか、材料を集めて形にできないだろうかなどと思いつつも、出てくるのはきっと視覚的なもの。作品としてつくっているのは空間ですが、出てくるのはイメージばかりです。つまり、非物質的なものを使ってどうやって物質化するかを考えているんですね。ただ、齋藤さんは、体や手を動かせますよね。その違いが展示で出ると面白いと思っています。

齋藤:僕は小さい頃から、世の中のあらゆる面を触れたいという気持ちをもっていました。部屋の角など、全部を触って実感をもちたいという欲求があったんです。にもかかわらず体が丈夫なほうではなかったので、実際に冒険に行ったり、海にもぐったりすることは難しかった。だから、写真を撮るようになったのかもしれません。写真って遠いものに触れられる感じがありませんか。僕が作品に写真や映像を使っているのは、撮っているものに触れたいという欲求があるからだと思っています。触れて埋没していきたい、スライムのようにピターッとくっついて寝たい、といった欲求ですね。写真を撮るときも視覚が働かない空間に投網をパッと投げて、沈殿していって、形に寄り添いたいという気持ちがある。視覚がすごく働くような空間では、目立つものに意識が行ってしまうので、その欲が満たされづらいんです。できるだけ均質な状態というか、あまり強弱がない視覚世界を望んだ結果、夜に長時間露光で撮ったり、水の中にカメラを向けたりするようになったのかもしれません。だから、向井さんが言うように手で何かをつくりたいという欲求とは、実はちょっと違うんです。デッサンも視覚を鍛えるものと思われがちですが、手でものに触れる行為をしている感じがするじゃないですか。そうやって投網を投げるような感じで、見えているすべてのものを触れてみたいという欲求がありますね。

向井:なるほど、空気にさえも触れたいと思うんですね。

齋藤: 以前、展示のタイトルに『網触共沈』(空間に対して網膜を投網のように投げ広げ沈殿させていくという意味の造語)とつけたこともあるくらい、空気、空間……とにかくすべてに触れたいですね。

「網触共沈」(2012年)
齋藤彰英
横浜市民ギャラリーあざみ野、神奈川

僕の場合、夜の空間の中で撮影して実感できることがあります。夜の山って、何も見えないのに、草のザザッという音や木のパキッと折れる音が突然するんです。その中で撮影するのって正直怖い。単純に自分より強い動植物にやられるかもしれないという、動物としての始原的な恐怖があるのでしょう。そう思いながらも長時間露光していると、だんだんその恐怖心がなくなって、同化していく。その瞬間ってすごく気持ちよくて、エクスタシーみたいになるんです。撮影行為には、そういう自己セラピー的な部分が多分にあると感じています。僕は地上にいるとき、人に合わせるということをすごくしているんですね。それはストレスである一方で、自分らしさでもある。でも、やっぱりそれだけではないということを知っているので、撮影行為を通して、自分の心地よい状態をたまに出してあげているわけです。先ほど言っていたように、異なる位相ですよね。わざわざ夜に山へ行くのは、単に美術作品をつくりたいからだけではなく、日常的な生活とは違う自分の感覚を想起させるためのスイッチがあるからという理由もあるのでしょう。ある種性癖のようなものと近いのだと思います。
こうやって美術という言葉を間借りすることで、社会的に意味のある作品として何かを創出できている。僕には美術があったからそのように処理できましたが、表現や創作活動をやっていない人は大変だなと。そういう意味では、僕は美術があってよかったと思っていますね。

向井:齋藤さんが言うような発露は、わたしもすごく大切だと思っています。でも、いわゆる狭義の美術には、もはやその要素がない気がしませんか。かつてはお祭りなどで、「普段とは違う自分の感覚を想起させる」ことができていましたが、今はお祭りさえも形骸化してそういった要素は少なくなってきてしまいましたよね。

齋藤:昔は儀礼を通じて自分の感性を発露させていくような瞬間をつくっていましたよね。現代におけるワークショップが、祭りのような儀礼の役割を兼ねているのかもしれません。とはいえ、美術もまた形骸化してきつつあり、あまりよくないワークショップも行われていますよね。例えばアーティストが行うワークショップなら、本来であれば、そのアーティストの表現手法をトリガーに、参加者それぞれがもっている感覚や表現の発露を見出すきっかけをつくれればいいわけです。にもかかわらず、最近のワークショップは「これをつくりましょう」「つくりました、持って帰ります」「楽しかったね」で終わってしまうものが多い気がするんです。それでは、感覚を発露できたり、自分の今の現状を確認できたりするための場や儀礼にはなっていないですよね。
今の世の中は、基本的に安定を求めているせいか、別次元に連れて行ってくれるトリックスターみたいなものを拒む傾向にあります。でも本来は異質な場所にいざなってくれるものって、すごく大事だと思うんです。

向井:障がいのある人たちなど社会的にメジャーな表現手段をあまりもたない人たちのワークショップって、極端な2つのパターンに分けられると感じています。1つは「歌が歌えるようになりましょう」といった、ありきたりなもの。その人の表現ではないにもかかわらず、「何かをできるようになること」を目的を設定してしまっています。もう1つは、「楽しめればいいじゃない」というもの。それについても、わたしは違う気がしているんですね。楽しめるだけでいいのでしょうか。その人たちにだって表現はしたいものはあるはずだと思うからです。もちろん、表現したものを社会的に発表するかどうかは別です。でも、何かを表現できる手段をどうやったら引き出すことができるのか、わたしは考えてみたいんです。
前もお話ししたように、自閉症の作家の東田直樹さんが文字盤をコントロールすることで、自分の思考をコントロールできるようになったのは、まだまだ発掘されていない知覚の発露があると感じていて素晴らしいなと思います。テクノロジーを利用することで、ある言語態がちゃんと発露するってすごいじゃないですか。社会的に普及しているテクノロジーを使えば、障がいの人たちがただ楽しむ以上の表現を見ることができるかもしれない。彼らのほうが知っているかもしれないことにとても興味があるんです。

齋藤:そうですね。僕は、表現が見つからなくても自分はこういう感覚をもっているんだと気づけたり、あるいは今の現状で自分はこういうふうになっちゃっているんだと発見できたりするのがいいワークショップだと思っています。アーツカウンシルで、河合祐三子さんという方が手話講座をやっていたんですね。たいていの手話講座って、言語や単語としての手話を覚えるじゃないですか。でもそこでは、単純に単語を教えるだけでなく、聾者が感じている感性みたいなものやコミュニケーションの取り方みたいなところも参加者に伝えています。それによって、参加者は日常的な聴者の感覚との差異を発見し、コミュニケーションというものはもっとふり幅があるんだと感じられる。そうすると聴者同士においても、コミュニケーションの取り方の多様性が出てくるんです。手話を通して、日常生活のコミュニケーションというか、人の感覚を想像する、慮るってところに視点がいくようなことを行なっていて、すごく面白いんです。型をそのまま押し付けたり、やらせたりするだけでは、ワークショップではなく作業ですよね。

向井:素晴らしいものを表現・創作できても、「社会に出す」という部分を求めていない人もいますよね。いわゆるアート、いわゆる音楽という形にしなくとも、それを見た誰かに何かが伝わったり、気づきをもってもらったりということはあると思うんです。それによって、人が救われている部分もあるでしょう。表現した側は自分のためにやっていることでも、実は社会の中で生きているゆえのコミュニケーション手段だったりもする。でも、こんなに素晴らしいものが生み出せるのに、なぜこれがコミュニケーション手段になってこなかったんだろうと思うような人も、社会の中にはいますよね。素晴らしい感性をもち、素晴らしい絵が描けるけれど、それを生業にはせず、ある程度までやって辞めたという人はまだいいと思うんです。それは解決していて「折り合いがついている」と言えるからです。そうではなく、その才能が手つかずになっている人たちが、社会にはたくさんいる。別に社会に出さなくてもいいのですが、その人が無意識であっても自分を表現することに難しさを持っているならば、それに対して何らかの発露が持てる、誰かに認められていると感じられる、表現できていると感じられるのは大切なように思うのです。

齋藤:例えば儀礼や踊念仏みたいなもののように、共同体として発露していくものは重要だと思う一方で個人の誰に見せる気もない、自分の中だけで発露させていくことの強度もありますよね。見せることを一切考えない自分のためだけの行為って、他に見せてしまったときに、強度がなくなってしまうというか、意味が変わってしまう場合があると思うんです。周りは「誰かに見せないなんてもったいない」と思うかもしれませんが、見せた途端に異質なものになっていってしまうのでしょう。
そういった人や表現に出会えたことは本当に素晴らしいことだし、羨ましいことです。でも、周りの人はそれを無理に、世の中に残そうとしたり、他の人にその伝播させたり……ということはしなくてもいいのではないでしょうか。誰にも見られることのない表現は、世の中には残っていかないですし、他の人は知ることすらできません。そういった切なさがある一方で、運良く出会えた人はその出会いを奇跡として受け取っていくしかないのでしょう。世に残らず消えていくものの輝きや美しさがある。世の中って、そういうことだらけだと思うんです。

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