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きわダイアローグ12 齋藤彰英×向井知子 3/3

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3. 残らないものの美学

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齋藤:僕が美術に興味をもち始めたきっかけについては話していなかったですよね。まず一つは子どもの頃よくテレビでやっていた「裸の大将」が挙げられます。それからもう一つ、母方の祖父の影響が強くあると思っています。おじいちゃんは体が大きく、よく散歩に行く人でした。彼は散歩から帰ってくると、家にある大きなホワイトボードにその日見た風景をサラサラサラッと描いていました。散歩から帰ってきて絵を描いて、夕飯を食べ終わるともう消している。気づくとホワイトボードはまっさらな状態。僕は、それに魅力をすごく感じていました。僕らに伝えるためにしていたわけではなく、自己のための確認行為だったり、見たものを反芻してもう一度咀嚼する、確認行為だったのでしょう。絵自体もよかったのですが、自分のための行為としてやる姿勢が本当に素敵だったんです。周りはやはり「ちゃんとした紙に描いて、他の人にも見せたら」などと言っていましたが、結局おじいちゃんはそういうことを一切しませんでした。その人自身のための行為に出会えた僕は本当にありがたかったなと思います。世界にはきっと、そういうものがたくさん散らばっているんですよね。先ほども少しお話ししましたが、出会えたときには、やっぱり感謝するだけなのでしょう。

かつては、自分のための行為や表現をそれぞれがもっていたのかもしれないですが、今は、そういうことをする余裕が生活の中になくなっていますよね。だからこそ、今、美術がある意味として、自分のための行為がしづらい方たちに、視点を与えるきっかけづくりになれたらいいのかなと思っています。例えば今回の展示も、たまたま観た人が、自分の発露する瞬間ってないのかなと考え始めるようになったらラッキーかなと。僕は、そういうたまたまの出会いが、作品を通して起きたら嬉しいなと思って発表している部分があるんです。自分が見たものを再確認して、牛の反芻作業のように、一回吐き出してもう一回食べて確認するために展示をやっている。そう考えると、おじいちゃんの姿勢から大きな影響を受けている感じがしますね。職業人として美術をするなら、本来ならば、きちんと形を残して、次のステップを考えて、自分の表現の強度をつくっていかないといけないなとは感じています。でも僕はそこにあまり興味がないというか、わくわくしないんです。だからアーティストではなく、カメラマンもやったり、配信もやったり、大学で先生もやったり、父親もやったり……と、雑多な感じの活動の仕方をしているのでしょう。それはそれで重要な取り組みかなという感じはしています。

そういえばおじいちゃんは石も集めていたんです。散歩に行って、石を一つ持って帰ってきて、家の玄関に並べていたんです。それらの石もすごくかっこよかったけれど、今はもうみんな片付けられちゃいましたね。

向井:わたしも実家の片付けをしているのですが、父のものは、いわゆる歴史に残っていくような書籍や資料だから、残しておくものも多いんです。でも母のものって、生活に関わるものが多いし、彼女にはかつて必要だったものなのかもしれないけれど、今はもう必要ないものがたくさんある。例えばもう見返すことのない切り抜きや使わない空箱や余り布など、そういったものはスペースの問題を考えるといつか捨てることを考えなければならないじゃないですか。

齋藤:でも、残らないものの美学もありますよね。残そうとした途端に、全く違うものになってしまうというか。高橋士郎 *1 さんは残さない美学をお持ちですよね。《バボット》のようなキネティックなものを制作しているけれど、どんどん自分の思惟するものを極力形を残さないようにしてます。

向井:ものを残すことに関して、わたし自身はすごく曖昧なんです。映像や空間演出の展示って、その日限り、しかも数時間だけのことが多く、それこそ残らないものばかりでした。だから、記録集やテキストにしか残らない。
わたし自身そんなに多作ではないし、若い頃は10年に1つ作品ができればいいやと思っていました。でも、子どもが生まれてからは、イメージや考えがまとまってから始めるとか、終わりが見える完成度とかではなく、とにかく動いてみて自分が混乱し、その上で出てくるものと向き合ってみようと思ったんです。制作にはわたしがいろんな方向を向いてやってきたことが積み重なっているので、制作途上のものをいろんな人に理解してもらうにはすごく労力がかかります。でも最近は、複数の人たちから「一見つながりのないようなさまざまなことをやっているようで、その集積は一つの方向を向いていて、やっぱり向井さんらしい、そういうやり方なんじゃないですか」と言われるようにもなりました。大学の授業においても、学生それぞれが創作と向き合う混乱の中で、ある瞬間にばらばらのようにみえていたものが1本の流れになり、すーっと、その人の軸が通るような瞬間に出会うことは幾度もありました。その場に立ち会うことができた体験はすばらしかったんですね。なので、わたしもちゃんと混乱しようと。50歳で大学の教員を辞めたことは大きな起点となっていますが、しっかり混乱しながら動き、その流れの中で残したいことに関しては積み重なる形で残し、消えてもよいことに関しては消していく。これは瞬時にやっていずれは消えてしまうかもしれなくてもやっておこうとか、戸惑いながらもひとつずつ俯瞰しながらやっていく必要があると最近は思っています。

齋藤:僕の父親はのれん分けしてもらった鰻屋でしたし、おじいちゃんおばあちゃんたちも定食屋や八百屋でした。身近に形を残す仕事や活動をしていた人がいるわけではないので、僕自身は今、残すということに意識が向いていません。むしろ、どうやって残さないでいられるかに興味があります。今の時代、データは自分の手元を離れてどんどんどんどん拡張しているので、残さないためにはどうしたらいいのでしょう。今急に死んでしまったら、いろんなものがたくさん残って迷惑だよなという感覚のほうにリアリティがあります。特に、僕は写真が捨てられないんです。

向井:それはどういう写真がですか。

齋藤:どんな写真もですね。アーカイブという意味ではなくて、単純に捨てられないんです。若い頃はプリントもしていたので、どうでもいい写真も残っています。

向井:残す、残さないということで言えば、今回の展示でダイアローグの痕跡をどうあつかうかということはあるんですよね。

齋藤:撮影しながら、拾ったものを集積させていくということは考えていたんですけれど、意外とものってあんまりないなって思って。今まで撮影に行くと、やっぱり東京って、結構整備されてしまっているので、整備されているなかでも、あるものを拾ってこようとは思って、拾ってきたりとかすると面白いかなっていうふうに思うんだけれど。もう一つ、なんか、その拾ってくる的な感覚で、音とか、あとはなんか、フロッタージュみたいに、なんかその場から写真とかとは違う、そこの場所から削いできたものというか、剝ぎ取ってきたものみたいなものをやってみてもいいかなっていうふうに思ったんですよ。

向井:今それを聞いて思ったのは、たぶん、わたしは収集はしてこないんだろうなと思うんですよ。

齋藤:収集。

向井:やっぱりそれも齋藤くんの場合は物質的だなと思ったんですけれど。わたしがたぶんやるとすると、その場で撮った写真から何かを起こしたりとか、そこそのものから取ってこないかもなって。物質と非物質性じゃないですけれど、あなたのほうは、とても物質的なものが出てきそうだなってやっぱり思ったんです。わたしが物質化しても、もともとわたしから出てくる段階でもとても非物質的なもののスタディになるかなとは思いました。

齋藤:でもなんかもの置くんですよね。

向井:ダイアローグの痕跡はなんらかの形で介在させたい、ひっそりあるといいなあって。このお寺の境内のシャープな力強さの中に雑草が生えているのが素敵だからっていうのものあるんですけどね。

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*1 高橋士郎(たかはししろう、1943年〜)
造形作家。東京生まれ。1960年代より当時先進的であった機械制御による作品「立体機構シリーズ」を大阪万国博覧会EXPO’70などに発表。マイコン制御による「電脳シリーズ」、風船素材を使用した「空気巻く造形シリーズ」などがある。研究教育にも従事し、多摩美術大学第7代学長も務めた。

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