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きわダイアローグ13 齋藤彰英×鈴木隆史×向井知子 2/3

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2.

デジタルカメラによる撮影行為とイメージの現れ

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齋藤:僕は作品のためにカメラを扱うようになったのはデジタルから。だから、紙焼きみたいな行為はしていないんです。若い頃は、別に表現者になろうとは思っておらず、むしろ商業的なデザインをやろうかなと思って多摩美術大学を受験しました。でも結局入ったのは、情報デザイン学科の情報芸術コースという、よく分からないところ。ざっくり言うと、既存の他の学科とは違うことをやる学科、といった感じでした。あるいは、やることが決まっていない学科。

鈴木:今の芸大の先端(東京藝術大学美術学部先端芸術表現科)みたいな場所だったんでしょうね。

齋藤:教員の方々にもすごく幅があるようなところだったので、自分で何かを見つけないとヤバいぞと。かつ美術表現に関連する専門的技術を教わる環境ではなかったので、写真に関しても誰にも教えてもらえませんでした。特に写真に関しては、フィルムからデジタルへの移行期でもあったので、自分で調べて環境をつくっていくほかありませんでした。ただ、デジタルカメラの画素数やプリンタの性能もあり、作品としてデジタルカメラを使うまでには至りませんでした。一方で、フィルムを使った作品制作も可能でしたが、映像やインスタレーション、あるいはパフォーマンスなど表現したい、やってみたいイメージに対して、どういうメディアを使うと適切かを考える方が面白かったんです。そういう状況だったので、フィルムを使ったアナログ的な作業は通ってきませんでした。でもデジタルって、どうしてもパソコン上での作業を念頭に、むしろその作業のほうが優位性を持って取り扱いがちだと思うんです。それで、カメラについて実感をもてるような撮影方法や場所みたいなものを探した結果、今のような撮影方法になりました。デジタルカメラだったからこそ、自分で実感できる撮影行為や、イメージの現れみたいなものを体験したい、確認してみたいと思ったのでしょう。根幹にはそういうシンプルな欲求があるのかもしれません。もし、フィルムカメラを使っていたら、アナログ的に実感できるタイミングがたくさんあると思うので、今みたいな撮影方法や場所を選ぶことはしていなかったと思うんです。最近、もう一度「チェキ」や「写ルンです」が、若い人たちに流行ったのも同じような感覚でしょうか。自分が実感をもてるアナログへの憧れがあるんです。

鈴木:「地層を撮る」というと断面としての崖地を想像しますが、水面を真下に向かって撮っていきたいという欲求と、それで初めて得られるイメージがあるということが面白いですね。層を成すという意味での地層そのものをもし撮るんだとしたら、垂直面を正対して取ることしかできないと思いますが、そうではない観点として、面白いなと思うんです。水という媒体を介すことで、層が違った物質感を持つというイメージもあるのかもしれません。

齋藤:今までも作品をつくるときに真俯瞰では撮ってはいました。でも『東京水辺散歩』という本を出すにあたり、いろいろと都内を歩いたなかで、都市部のすぐ真下に何十万年前の地層が露頭していることにちょっとした驚きがあったんです。多摩川で地層が見えていることは分かっていたのですが、実は神田川でもかなりダイレクトに見えている。それを作品にすれば、今回出版にあたってリサーチしたことも活きてくるなと思ったんです。

鈴木:そこがずっと川であり続けたから堆積しなかったということですか。

齋藤:そうだと思います。いろいろ堆積物が堆積しても押し流されて、削れていったのでしょう。きちんと調べてみないと分かりませんが、川が溢れないために神田川は人工的に掘削されたのかもしれません。

鈴木:そうですよね。氾濫してきたところは結構そういうこともやっているでしょうね。

齋藤:それから神田川は護岸工事のために鉄板が打ち込んであるのですが、その露頭面にも鉄板や杭打ちされたような形跡があったりする。さらにそこが水によって削られていて、どこまでが自然の形なのか分からないのです。そういう経験も含めて作品の中で何かできるのではないかと思ったんです。向井さんがおっしゃっていた「都市化もある種自然な人間の進化の一部である」ということを考えると、たとえそれが人工的に掘削されて露呈したものであったとしても、そこに意味の違いはあまりない。むやみに分けず同じように、目を、カメラを、向けてあげて、作品化できると面白いのではないかと思っています。しかも多摩川から神田川までが地続きでつながっているという、広い視野でやれるとよりいいのかなと。
「きわにもぐる」という言葉には、境界線や隙間にもぐるというよりは、地層のような層の布団にもぐり込むような感覚をもっています。垂直方向のきわではなく、折り重なっているきわに対してもぐっていく、沈殿していく。レイヤーの中に沈降していく感じともいえます。

向井:英語の“History”をドイツ語にするとき、同じような“Historie”という言葉はありますが、通常“Geschichte”を使うことが多いんです。 GeschichteもHistorieも「歴史」「物語」両方を指しますが、わたしの中でのイメージでは、感覚がちょっと違うんですね。Geschichteの語源は“geschehen”=「起こる」「生じる」という動詞なので、生じたことを並べていったものです。でもわたしはGeschichteの中に含まれる“Schicht”という部分を意識します。“Schicht”は層を意味し、GeschichteもSchichtも時間的経過を含む言葉です。Schichtの語源は「順序」「列」といった並列的意味も含みますが、ある高さを持った塊という垂直的な時間の積み重ねを連想させます。なので、わたし個人としてはGeschichteという言葉を聞くと、年表のような水平方向の歴史だけでなく、どこか垂直方向に積み重ねられていく層の時間も連想します。スイスのペーター・ツムトア *1 という建築家がいて、ケルンで聖コロンバ教会ケルン大司教区美術館の建築を手掛けています。戦中に壊された教会の廃墟を再生させた美術館で、教会の中世の建物の上の部分をツムトアがつくり直しているのですが、下はローマの遺跡のままなんです。わたしは物語的な水平方向の時間の経過というものがあまりピンとこないのですが、ツムトアの美術館に入ったときに、垂直の時間層の中に浮遊しているような感覚になったんです。ドイツ語圏には物語や歴史という言葉に縦軸の感覚も含まれるのかなと。

聖コロンバ教会ケルン大司教区美術館(2007年)
向井知子
ドイツ・ケルン市

齋藤:今回の展示では、実際の場所に行って撮った写真だけではなく、スタジオ撮りしたものも使ってみたいなと思っています。例えばこれは、石を金糸で結わえ撮影し、現像時に上下反転させています。風船が浮くように、石が浮いていく感じにしています。

「憶へのまなざし」(2013年)
齋藤彰英
創舎わちがい、長野

地層や川底を撮った沈降していくイメージがある一方で、浮き上がっていくイメージも見せる。そういう上下の垂直方向への動きの変化は、映像になるといいのかなと考えています。それから、展示空間にマテリアルを配置させるのもいいなと思っています。確か秩父の祭事だったと思うのですが、やぐらを組んだ上から縄を下ろして、石を吊る祭壇みたいなものをつくる様式があるそうなんです。今回の展示でも採取したものを床面にギリギリ接しないかところまで吊るすような構造物をつくることで、きわを生み出すのもいいかなと考えています。そもそも、展示会場の文由閣に入るまでにも、上がるという行為をしますよね。方向の動きが入る前までにあるせいか、空間自体が浮いているのか沈んでいるのか分からないというちょっと不思議な空間特性があります。沈降して、上昇、浮遊していく映像に対し、重力やある種浮遊感を感じるような立体や造形、あるいは床面まで垂らしたプリントなどを展示空間に点在させる。上下方向の動きを可視化するような展示構成を今のところもっています。

鈴木:秩父のお祭りではどのくらいのサイズのものを吊るしているんですか。縦横20センチくらい?

齋藤:もっと大きいですね。吊っている石も20~30センチ程あって、荒縄みたいなもので結わえている。すごく美しいんです。展示空間ではプロジェクターの位置のことも考えて、展示台の上にものがあったほうが見やすいかなとは思っています。

向井:台の存在感や地面との関わりを考えるのが難しそうですね。わたしは細いものの上に層が乗っているイメージをもっています。とはいえどうやって立たせるかまでは思いついていないのですが(笑)。それと文字が両方あるといいのかなと思っています。

鈴木:地層の話と、石をぶら下げるあたりの話を聞いていて、かつて中西夏之 *2 さんが、自身が立つ場の水平性や安定性を執拗に疑うようにしながら絵画を制作し、そういった姿勢がそのまま絵画作品やインスタレーションに昇華していたことを思い出しました。錘を紐でぶら下げて垂直を探るような行為をモチーフとして繰り返し使ったり、自身の背後の、遥か何キロも彼方の中心から円弧状に描かれたものがキャンバスに描かれるというイメージを語ったりしていたと思います。吊るすという見せ方は、それと似ているのかもしれません。お話を伺っていると映像だけでも空間としては、十分成立しそうな気はするのですが……。

齋藤:映像だけでも作品が自立させるということは意識していますね。空間の中央付近に何かをしなくてはいけないという必然性が、今のところそんなに明確にあるわけではありません。でも、その一方で、文由閣で展示をする際には、単純に壁面を使うだけではなく、東長寺全体でつながりが見えるといいなとも思っています。

鈴木:映像作品をメインだとして、そこから少し距離を置いて見直す別な場所があるといいのかもしれませんね。例えば水の苑を使うとしても、あの場所自体のもつ力が大きく、場所そのものがメインになりかねない。そういったとき、すごく即物的ではありますが、備品の座布団の上に1個ずつ石が置いてあったり、何かの言葉が見えるようになったりといった物量でも、効果が達成する可能性があると思います。映像以外に何かを絶対にやらなくてはならないということはないんですよね。

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*1 ペーター・ツムトア(Peter Zumthor、1943年〜)
スイス出身の建築家。バーゼル生まれ。主な建築に、テルメ・ヴァルス(スイスの保養地)、ブレゲンツ美術館、ハノーバー万国博覧会スイス・パビリオン、聖コロンバ教会ケルン大司教区美術館など。

*2 中西夏之(なかにしなつゆき、1935年〜2016年)
美術家。東京生まれ、東京藝術大学卒業。1960年代は高松次郎・川仁宏との『山手線事件』、高松次郎・赤瀬川原平と結成した「ハイレッド・センター」による「ハプニング」と称したパフォーマンスを行う。その後、絵画制作を中心に据えながら、展示空間や身体性との関係を探究するインスタレーションも多く手がける。

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