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きわダイアローグ15 向井知子 2/3

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2. 自己効力感をもって共鳴する

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――ホムブロイヒで展示するテキストの上には、ホムブロイヒの敷地内で拾ったものを置くつもりとおっしゃっていましたね。ドイツで展示をされるので、ドイツの方に馴染むものを置くのだろうなとは思うのですが、ドイツの人の季節の移り変わりに対する感覚は日本の人とあまり変わらないんでしょうか。タケノコを見て春だなと思うような、季節を感じるドイツならではのものがあるのかなと。

向井:日本人だって今四季を感じるのはなかなか難しいですよね。これは、去年の秋に庭から摘んだツワブキなのですが……。下の部分を切ったら根っこが生えてきたので、一度土に植えようとしたら弱ってしまったんです。だからまだこうやって、水に差している。このツワブキは今、本来得るべき土の栄養を使わず、水を吸って生きています。一見とても人工的ですが、ツワブキ側からしたら、与えられた環境の中で生き方を変えて生きているわけですよね。きわプロジェクトを始めたきっかけは、国内外を旅していて、自然の中にテクノロジーが取り入れられたり、環境問題に考慮したテクノロジーの産物(建築)と自然が隣り合わせにあったり、人工的な構造物に自然物を取り入れたりといった風景に遭遇する中で、違和感を覚えたと同時に、本当にそれが異質なことなのかと考えたことです。それ以来、生命のきわという視点で、大きな自然環境の中で起きていること、身の回りの自然のこと、自分たち人間の生命について考察するようになったのですが、その際に「自然か人工かという考え方で理解できることなのか」と思うようになりました。

実際に自分たちの生命そのものに照らし合わせてみたとき、年齢を重ねて医療の助けを借りることも増えてくると、人間が人生を生きていくことも、このツワブキの生き方と近いなと思うんです。例えば健康なときには、風邪薬を飲むとか歯に詰め物をするといった医療の助けがあっても、生命維持のための人工的な処置をされているとはあまり感じません。しかし、個体の生命維持機能の大きな部分を医療に頼らなければならなくなると、初めて、わたしたちの生命を維持するためには人間が開発したさまざまなテクノロジー、人工的な産物の力を借りているのだと気がつくことになります。今日では、その人自身が望みさせすれば、たとえ体が弱くなって、医療テクノロジーの力を借りながらも、体を必死でもたせて生きていくという生き方もあります。それは自然的生命か人工的生命維持かではなく、一つの生命が生きるための方策をただ探ったまでだと感じるんです。最近読んでいる社会学者の立岩真也 *1 さんの『良い死/唯の生』には「この社会には、自然を保つのがよいという指示と変形し錬成せよという指示が、同時に身体に向けられる」という話が出てきました。

立岩真也
2022年、筑摩書房

――例えば寝たきりになったとしても、やりたいことがあるなら生きるという選択肢を取るしかないですし、人は誰しもできる生活の仕方を変えて生きているということですね。

向井:生命のきわということで考えると、究極の状態においては自然死と延命治療に関して対で考えられることが多いですが、決して二択では考えることができないわけです。いろいろな人の生きざまを見ていると、人はこうやって生き続ける、死を迎えるという、典型的な型なんて存在しないんだなと思います。これから、AIで医療や生命はカスタマイズされていくのではないかと言われています。ネットワークに繋がっていることも当たり前の世の中になりましたよね。ただ、全部がAIに取って代わられることはないと思うんです。個人のデータと蓄積された膨大な臨床データを比べて、手術の成功率や生存率といったことを提示することはできるでしょう。でも、さまざまな医療の現場にいる先生たちを見ていると、データはあくまでデータであり、結局目の前の患者さんを見てどうするかを決めているわけです。もちろん臨床のデータに基づいて治療方針を決めていくわけですけれども、病状だけの問題だけではなく、その治療を受ける人の生き方とか、患者さんや患者さんに近い人と医療従事者との対話によって、生命の行先を決めていくこともある。外科の先生であっても言葉は治療の一つであるとおっしゃいますけれども、現代医療の最前線にいる先生たちでも、命はあくまでわからないという尊厳のもと、目の前の患者さんに対して手探りで治療にあたっていらっしゃるのだなと思うんです。それは、まだAIにはできない部分だと言えます。以前、独立研究者の森田真生さんがハルトムート・ローザの『加速する社会』という本の話をされていたのですが……。

ハルトムート・ローザ(著)/出口剛司(監訳)
2022年、福村出版

向井:現在、社会は加速し続けていて、これからスローになることはないですよね。AIの普及でAIとの壁打ちのようなものの意味も、それはそれであると思うのですが、人と人はどのように関わっていけるのでしょう。社会は加速する中で、人同士が接する時間の長さは、細かく切り刻まれていくのですが、瞬間瞬間でどうお互いに関わってゆけるかが大切だと感じていて、そのための場をどのように生み出すのか、そのための場とはどういうものなのかを特に考えています。つまり、昔は家族や近所の人など、同じコミュニティの中で近いもの同士が人生を伴走していくことが当たり前でした。でも、現代ではもはや、そういった暮らし方はできないですよね。この瞬間は自分のAという能力を使って○○さんと接し、次の場ではBという力で●●さんに何かを与える……また、その次の場では△△さんから逆にCという方法で助けてもらうといったように、場ごとに集まった人がお互いに与え合って過ごしていかないと成り立たなくなっています。瞬間的にある場所に人が集まってきて、またすぐに別の瞬間的な場所に散らばっていく。そうすると、生き方も働き方もすごく多様になりますよね。瞬間的場をいろんなところに発生させるということが増えてくるわけです。

――一人の人が、たくさんの拠点を持っていていいということですね。

向井:だからこそ、人や場所などを中心に拠点ができて、どのように関わっていくかが、今後すごく重要になっていくのではないかと思っています。かつて「きわダイアローグ」や公開トークでも、ヒルシュさんは、思考モデルの同期が私たちの時代の挑戦であるということを話されていました。ヒルシュさんは0と1に還元されていくデジタリティという思考モデルがわたしたちの思考や身体性に刷り込まれていることの危うさを話されていたのですが、インターネットのように点と点を繋いでいくという捉え方だと、その狭間にどれだけ点を増やしてもどこかがスカスカです。しかし、一つひとつの点に、瞬間的ではあっても人びとが集まってくる。またその場に、ささやかなことであっても内容的充実や密度があって、そういった点がたくさん増え、そこに何らかの気づきがあると何か違ってくるように思っています。
先ほどの『加速する社会』に「自己効力感(Selbstwirksamkeit)をもって共鳴しているとき、私たちは心に触れてくるものに応答し、呼びかけてくるものを私たちの側から迎え入れています。そうすることによって、私たちは生き生きとした仕方で世界と繋がっていることを経験している」という一節があります。自己効力感とは、「自分がやっていることが何かに関与している」と感じることです。「きわにたつ」をご覧になった渡邊淳司さんが、「わたしはこれに関わっていたんですね」とおっしゃったことなど、まさに自己効力感だと言えます。自分が直接手を出していなくても、関与しているという感覚を持てることが重要なんですね。

渡邊淳司
2024年、化学同人
※増補版にはきわダイアローグの一部が所収されている

――関わってしまうって、一見怖いことじゃないかなとも思うのですが。

向井:関わるというのは、自分が「与えられている側である」と感じる場面でも、逆に自分が「与える側にもなりうる」ことだと思うんです。うちには現在さまざまな専門性を持った方たちがたくさん来てくださっています。その方々は仕事として来てくださっているのですが、、一方でわたしたちは「与えられる側」です。でも、玄関のスペースを整えることで、わたしが「与える側」になっている部分もあると考えられるのではないでしょうか。ある拠点において、双方向的に「自己効力感をもって共鳴する」ことが重要なんだと思うんですね。

――向井さんがつくられている玄関のスペースは、おもてなしの気持ちが入っているんでしょうか。

向井:そうですね。仕事をしに来てくれている人たちに対して、「また来たい」と思ってもらえる場所にしたいと考えています。

――「来たくなるような場所にしよう」という取り組みって、結構あちこちでされていると思うんです。でもそういったとき、もう少し即物的なことをされている場合が多い気がしています。例えば新しい椅子を置く、白っぽい色味で揃えるなど、分かりやすい効果を狙っているというんでしょうか……。そういうものと考え方が近そうに見えるのに、使っているものが違いますよね。その辺にあるものって言ったら言葉がよくないですが、それで居心地のいい場所づくりってできるんだってみんなあまり気づいていないのかもしれないなと思います。

向井:それができるんだよということが、この場所やホムブロイヒの展示から伝わるといいですよね。見た人が実際に自分の生活に照らし合わせて行動に移したらもちろんいいですけれど、気づいてもらえるだけでもいいなと思います。

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*1 立岩真也(たていわしんや、1960年〜2023年)
社会学者。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。北海道生まれ。多様な生について考える立命館大学生存学研究所の立ち上げを主導し、初代所長を務めた。主な著書に『私的所有論 第2版』『弱くある自由へ』(青土社)、『良い死/唯の生』(筑摩書房)など。

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