きわダイアローグ05 手嶋英貴×向井知子 2/6
2. メディウムとしての水と日吉大社
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手嶋:比叡山の東側の山麓には坂本という街があります。地図を見ていただくとわかるのですが、街中が碁盤の目にはなっておらず、あみだくじのように少しずつずれているんですね。神さまがお神輿に乗ってやってくる道はまっすぐですが、それ以外はわざとずらして、単調な景観にならないようになっています。
向井:面白いですね。景観は物理的なものですが、ある辻を曲がると、その場所の見え方が変わってくるということですね。それは物事の見え方と関係しているんでしょうか。
手嶋:やはり景観も意識してのことだと思います。京阪の坂本比叡山口駅の近くにある大鳥居から先が延暦寺、および比叡山の守り神の山王総本宮日吉大社 *1 の領域になりまして、そこからガラッと景観が変わります。手前に見える、上にお社(牛尾宮と三宮 *2 )が二つ並んでいる小さい山が八王子山です。あそこまで登るとこの二つのお社の間には金大巖(こがねのおおいわ)という大きい岩があるんです。麓の人から見るとすぐ近くにある山なので、昔は禁足地、神さまの山とされていました。それらの山々の向こう側に三角の頭が見えているのが、比叡山の主峰の大比叡です。
昔の人には、山登りという概念はありませんでした。山頂に行くことを目的に山に入るというのは、日本人にとっては完全に近代の発想です。当時の人々にとって山というのは、登る対象ではなく、見上げる存在でしかありませんでした。だから、山に入ってしまえば、誰にも会わずにゆっくり修行ができると最澄さんは考えて、比叡山に入ったわけです。登ってみると麓の人たちが、どういう生活の環境にいたかというのがよくわかると思います。要するに、ただ単に山があるというわけではなく、そこに奥宮社として可視化される形で神さまがいる。神さまが常に見ているという、まなざしを意識する機会が、生活の随所にありました。朝起きて表に出たら、神さまであるお山に手を合わせる。そういうことが、普通の生活のなかに染み通っているのが、昔からこのエリアでの暮らしの在り方ですね。
向井:かつてのお堂も、麓からは見えていたんですね。生活のなかにそれが見えているというのは、とても重要なことだと思います。
手嶋:昔のヨーロッパでは高い建物があまりなく、尖塔みたいなものが、村や町のどこからでも見えていました。比叡山も、それに似たようなところがあるのかもしれません。
向井:坂本の街は景観もきれいですし、住みやすそうですね。
手嶋:坂本では、神さまのいる聖域みたいなものがはっきりあるうえで、人が住む領域もある。そうすると、その境界をつなぐメディウムとして、水が機能しているところがあります。坂本では街のあちらこちらで、水路に水が流れるサラサラサラサラという音がしているんです。山に近く傾斜があるなかを流れているということ、それから、水路のデコボコした側面や底面に当たることで音がするのだと思います。
向井:どこまでそれが意識されているのかはわからないですが、やはり音が出るような構造の水路になっているんですね。常に街中に体感できる装置があるというか……。
手嶋:誰が来て歩いても、五感から気持ちいいと感じる要素が、坂本にはあるのだと思いますね。
鳥居の横には、山から流れてきた水が町中の水路を流れ、間にある庭に引き入れることで、人がつくった人工的な庭の中に自然の水を流すという工夫をしているんです。このような山からの水が街中に幾筋かありますが、だいたいどこかで合流して琵琶湖に向かいます。例えば、お寺の中にある庭園を順繰りに貫いて、横の水路につながったり。人工の川だけでなく、大宮川という自然のままの川も残されています。
向井:いくつかに流れを分けて、大きな形で流さなかったのは、物理的なことと思想的なこと両方あったんでしょうか。
手嶋:思想的というより、水はお庭の景観を構成する要素の一つですからね。また、昔は流水があると、井戸から汲まなくても、そこでサッとものを洗えて便利だったんです。なるべくたくさんの人が利用できるように、幾筋も分散させていたのだと思います。
向井:すべてがつながっているんですね。つまり、自然と人間が人工的に育んできた都市形成も、自然の一部として人間の営みを捉えている。坂本の歴史のなかで水の流れている場所は変わっているのでしょうか。それとも、かつてのままの場所に流れているのでしょうか。
手嶋:基本的にはそんなに変わっていないと思いますね。
手嶋:これが大宮川で、さっきの水の音なんですけれども、自然の川と坂本の街中に流れる水路が分岐しているのがちょうどここになるんですね。大宮川は人がつくったものじゃなくて、自然の川なので増水して水が多くなりすぎたときのために、水路の段を高くして、別の水路の方に逃すようになっています。
向井:ここは、まだ街のすぐそばですけれども、本当に山の水という感じですね。
手嶋:大宮川は日吉さんの領域なので、神域から水をとっているんですね。
手嶋:ここは、比叡山のもとの参道であると同時に日吉大社の参道でもあります。日吉大社の境内にはお社が分散しているのですが、年に一度主要なの神さまが集まる、山王祭があります。桜の咲く4月に行う、華やかで大きなお祭りで、お神輿も来ます。それを観覧するための桟敷席が祭場につくられるほどです。
向井:出雲もそうですけれど、神さまは移動されるんですね。
手嶋:そうですね。東本宮に祀られる地主さん(大山咋神〈おおやまくいのかみ〉)が、坂本にいたもともとの神さまなのですが、天智天皇の時代に、天智さんが奈良の三輪山から三輪明神をこの地に連れてきました。今もなお大宮とも呼ばれる西本宮で祀られています。そのため、大宮さんはこの土地からすると言わば外来の神さま。日吉大社は、土地のもともとの神さまと外来種の神さまが共存する構成になっています。
向井:昔から日本古来の神さまは磐座や神籬などに移動してきて、降りてくるとされています。そのように考えられたもとはどういうことなのでしょう。一神教の場合、神さまはずっとそこにいるものですよね。
手嶋:お神輿などで移動するのは、自分の領域を巡ることで、エリアを常に確定しておくような意図があるのだと思います。神さまに限らず、支配者はそうですよね。定期的に巡回して、変なことが起きていないか確認しているわけです。その地を支配している神さまの行動として、巡回するのは合理的なのです。それから、神さまがいないところに迎える勧請(かんじょう)も、神さまが移動する一つの要因です。例えば、奈良で春日明神を祀っていた藤原さんが、藤原氏として各地に分散する際、自分の故郷の神さまを分霊(わけみたま)として祀るといったことがそれにあたります。人の移動に合わせて、神さまが移動することもあるということです。
向井:そういう宗教は、他の国にも存在するのでしょうか。
手嶋:アジアには多少あるかもしれないですね。
日吉大社の正面には、山王鳥居という山型の鳥居が立っています。これは、比叡山のお山をかたどっており、特殊な形をしています。東京・赤坂の日枝神社もこの神さまの分霊なので、同じ鳥居がありますね。日吉大社は西本宮と東本宮をはじめとする、いくつかのエリアに分かれています。西本宮は、奈良から勧請した三輪明神を筆頭に、他の土地から招かれて神さまを集めたエリアになります。山王鳥居もこのエリアにあたります。それに対し、東本宮はもともとの土地神さまたちにゆっくりと過ごしてもらうようなエリアです。
手嶋:日本では、鹿が神の遣いとされることが多いですが、日吉大社では、猿が神の遣いです。これは、最澄さんが山で修行をしているとき、竹やぶの中に神的なお猿さんが現れ、その猿が「自分は日吉山王の化身だから、あなたを守ります」と言ったという伝説に由来しています。ただ、天台宗の中国の開祖である智顗(ちぎ)が、中国のお寺で修行をしているときにも竹やぶに白い神的な猿が現れて同じようなことを言ったとされているんです。日本でもそれを模倣して、日吉さんの神さまだと少しアレンジをしたのではないでしょうか。だから、今でも根本中堂の前には、ちょっとした竹やぶが人工的につくってあります。元は自然の竹やぶがあったのでしょうけれど、今はわざわざつくっている。地名としても竹林院という名前が残っていたりもします。
手嶋:それから、日吉大社にはお社の階段裏に、鍵がかかっている戸がある場合があります。戸を開けて入れてもらったことがあるのですが、中には仏間があるんですね。今はもう取り払われていますが、江戸時代までは神さまの大元は仏さまだということで、上には神さまを祀り、下には本地仏を祀って、仏事もしていたんです。建物自体の見た目は神道のお社なのですが、お寺の仏堂の機能も持っていました。両方の儀式ができるようにつくってあるんですね。
向井:特性が似ている神さまと仏さまが一緒に祀られているのでしょうか。
手嶋:そういうこともありますね。連想というか、類似性で結びつけたのではないかという要素も時々ありますが、あまり関係のない場合もあります。坂本の街にはあちこちお社があるのですが、それは全部日吉さんのグループで、数としては108あります。108というのは、インドでは万物を表す数とされており、それをお社の数に流用しています。お社は神さまの格にしたがって、大きさが変わります。京都の街中で観光地としても有名な八坂神社や北野神社も、このなかではさほど格が高くありません。八坂や北野は平安時代後期や鎌倉時代など、わりと遅くなってから信仰が盛んになったので、当時でいうと新参者という位置付けなんです。それから、早い時期に勧請された神さまは、先輩ということでお社も大きいようです。もともとこの辺りは山裾なので、すごく切り立っているわけではないのですが、それでもやはり自然の地形としては傾斜が常にあります。そのなかでお社をつくるためには、ある程度切り拓かなくてはなりません。でも、無理やりというよりは、少しでも開きがあるところを広くするといった形でお社をつくっていたので、今は何もなくても開けた場所は、昔何かがあったところだと推測できます。
山の上のお社への参道は、このあたり(奥宮二社の遥拝所)から始まります。回峰行者は、比叡山の無動寺谷明王堂から歩き始めて、山の中をずーっと通り、それから山を下って、今から行くお社(八王子山奥宮)の裏側ある山道を通り、日吉大社の境内に入っていく。そして東本宮、西本宮と巡拝したあと、駅の近くの大鳥居より内側の範囲で坂本の町を少し行って、無動寺坂という山道に入り、比叡山に帰っていきます。
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撮影:向井知子
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*1 山王総本宮日吉大社
全国におよそ3800社ある日吉・日枝・山王神社の総本宮で、大山咋神(おおやまくいのかみ)を鎮守神(地主神)として祀る。『古事記』に「大山咋神が日枝の山に坐し」とあり、創建はおよそ2100年前の崇神天皇7年とされる。古くは「日枝」「比叡」と書き「ひえ」と読まれたが、平安時代ごろに「吉」を用いるようになり「ひよし」とも呼ばれるようになった。現在では、「ひよしたいしゃ」を公称とする。境内は、東本宮と西本宮の二区域からなり、東本宮は大山咋神を祀っており、西本宮は大津京遷都の際に奈良県の三輪山より大己貴神(おおなむちのかみ)を勧請したものである。
*2 牛尾宮と三宮
八王子山にある日吉大社の奥宮二社。東側に地主神である大山咋神を祀る牛尾宮、西側にその妃神、鴨玉依姫神(かもたまよりひめのかみ)を祀る三宮が並ぶ。二社の間の石段奥には、金大巌(こがねのおおいわ)という磐座が祀られており、日吉大社発祥の地とされる。
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