きわダイアローグ15 向井知子 3/3
3. 思考や感覚の断片が、立体性を帯びてくる
///
向井:2021年の「きわにたつ」「きわにふれる」は確かにどちらも特別な空間になった反面、あれでよかったのかなという気持ちもありました。
実は、「きわにたつ」「きわにふれる」では、これまでの制作とは異なり、映像の素材となった写真の加工において、それがどこの場所であったかわかる程度の原形を留めていました。もちろんこれまでの制作においても、その土地にフォーカスした地域プロジェクトでは、どこで撮影されたものかをわかるように制作していました。でも、これまで「きわにたつ」「きわにふれる」のような抽象度の高いテーマに取り組む場合には、特定の場所性を排除して映像をつくっていたんです。しかし、このときには、抽象度の高いシーンもある一方で、その場所に行ったことのある人が見るとどこかわかるようなシーン、あるいは、元のモチーフが何かわかるくらい素材の原形が見えるシーンを組み合わせて映像をつくったんです。「きわにふれる」にはそれが顕著にありました。実際の場所を見て考え、取り組んだことではあるので、その場所の画像を使用し、場所性がわかることをある程度意図してつくってはいましたが、観る人が共感できるように、自然の写しをつくってしまっているような気がして、抵抗感はずっとあったんです。「きれいですね」「わかります」と言われるととても違和感がありました。
向井:「きわにたつ」は、詩というか、記号的な場面で構成している映像なので、そのものを記号としてのみ観ていただければそれでよいと思っていました。でも、固有のモチーフの原形が残った状態で記号化したせいか、観た人の中には解釈をして「あれは○○ですね」と言い切ってしまう人が結構いらしたので、とても危険なことをしたなとも思ったんです。
――映像の中に物質感や場所性が残っていたので、そういうことになったんでしょうか。やっぱり、何かの形が見えると、観る側からすれば話題にしやすい。でもその反面、記号としては受け取りづらいのかもしれないですね。
向井:記号はあくまで記号であると思える人って、そんなに多くはないんだなと実感しました。その危険性はわかりながら制作をしていたものの、やっぱり反省としてはありますね。また、「きわにたつ」自体が壮大なコンセプトワークになってしまったなと。永田さんの演奏もよかったですが、実はご本人は「あれでよかったのかな」とおっしゃっていました。コロナ禍の一番大変な時期でしたし、永田さんも「あの状態の中でしか生まれなかったものではないか」ともおっしゃっていましたが、いわゆる多くの人が想像する気持ちのいい波紋音の演奏ではなく、生物そのものとして戦っているように見えました。なので、永田さんにとってはコントロールできないもので大変だったでしょうが、演奏はよかったなと感じています。わたし自身はどちらかというと、気持ちいい波紋音は、周りと馴染みやすくて、それはそれでいいのでしょうが、自然の中にいるようで癒されるよねという考え方に近いようにも思います。そういう演奏よりも、永田さんがある緊張感の中で生命としてその場と必死に向き合っているときのほうがいいなと思いますし、そこに本来ある何かが立ち現れてくると感じています。
――ここ数年、ずっと「きわ」について考えていましたもんね。あの作品は「きわにたつ」という名にとてもふさわしかった反面、ふさわし過ぎたからこそ壮大なコンセプトワークになってしまったのかもしれないですね。
向井:記号は記号として受け止めて、その事実に何を感じたかが重要なんだよなと思います。今ではAIで何でもそっくりにつくれるようになってきているでしょう。そうやって、模倣から何かに迫ろうとすることや、本当に写してしまうことは危険だなと思っているんです。AIの精度は、入力される人間の情報の劣化によって、その内容を劣化させていく可能性があると言われていますが、限りなく「写し」を受け入れていくことに違和感を持たない社会的刷り込みが怖いと感じます。人が誰かと体験を共有するためのインターフェースは、コンピュータのそれとは違って、何かを何かに似せることですべてがいつも成立するわけではありません。例えば今ここに写っている影は、写しではあるものの、ものそのもの。そんなことを考えているタイミングで、ホムブロイヒでの展示の話をいただいたので、イメージのつくり方、空間の立ち上げ方について考え直したんです。これから先も、わたし自身がいつも映像だけで制作を行う意味はあるのだろうかと考えていたこともあり、イメージから空間を立ち上げるのではなく、空間そのものを立ち上げることでイメージがそこに生成されていくのが、本来あるべき姿なのかなと思っています。
――ここで言うイメージに絵などは含まれず、映像だけを指しているのでしょうか。
向井:プロジェクテッドイメージズ、投影するイメージですね。投影すること自体は間違っておらず、そこに映されている中身が大事なんだと思っています。
――例えば、光の移り変わりを投影する場合でも、イメージから空間を立ち上げてしまっていることになるのでしょうか。この場合、イメージ自体は具体的なものを模してはいないですが、イメージから空間を立ち上げてしまってはいます。空間に作用させてしまっているので、向井さんが今望んでいることではないのかなと思ったのですが。
向井:光の移り変わりで木漏れ日や影が映り込むのは、実際にあるものですし、それは模倣としての写しとは異なると思います。今回のホムブロイヒの展示でも、パビリオン「ラビリンス」の天井がガラス張りで太陽光が入ってくるので、展示するガラス瓶や自然物の影は投影されていると思うのです。それから、2023年の「きわにもぐる、きわにはく」でテキストと石でインスタレーションを組んだ際に、お寺の方が、「あれはとても向井さんらしく、また、映像的でした」ともおっしゃってくださり、たいへん嬉しいコメントでした。この方法は、映像的に空間が立ち上がっているのだなと思いました。
そういうこともあって、テキストを書いていくことについては、しばらく続けてみたいと思っています。映像でない方法で、どのようにイメージ、あるいは、空間が立ち上がるのか、それに興味があるということもありますし、今後は形に残るものも考えたいと思っています。長年、大学においては学生さんたちと一緒に各自の制作の内実を言語化することをしてきましたが、それがとても大切だったなと感じています。このプロジェクトにおいても、途中言葉として残しておくことで、振り返ったときに、あの時点でこのことがすでに予感としてあったのだなと思うこともありますし、きわダイアローグのように、たくさんの方たちと行なってきた対話の中に反芻する無数の気づきがあったと思うのです。そういったものを本のようなメディアにも残していきたいなと思っています。
――作品に対しての解説がしたいわけでもないし、解釈してもらわなくていいとおっしゃっていましたが、それでも本の形を取られるのは不思議だなと思います。
向井:何か背景となる物語のようなものを残したいと気持ちは全くありません。昨年の展示の際に、あなたから「このテキストには近景や遠景のような遠近感がある」と言われましたよね。わたし自身にも思考や感覚の断片が、立体性を帯びてきているような感触があって、本のようなものが時間的横軸ではなく、奥行きのある立体的な体験のメディアとしてつくれればいいのにと思います。それと、年齢的なこともあって、痕跡が残したくなってきたのかもしれないですね。日常の延長上にある思考や感覚が残されていくことが大切だと感じるようになったこともあります。
――そうですね。ミニマルな視点から引きの大きな視点までの遠近感があるテキストがさまざまで、不思議な感覚を覚えました。すっかり映像の人ではなく、「何かをつくる」人ですね。
向井:制作において、映像だけに頼る必要もないし、また自分で直接映像をつくらなくてもよいのだなと今さらながら思っています。もともと空間を立ち上げる手段として映像を使い始めたので、映像でないもので自分が制作できるのであれば、それはそれでよかったんです。そして、何のために空間をつくるのかを改めて考えたときに、「すっきりと晴れやかである」「ポジティブさ」を生むものをつくりたいということはもともと原点にあって、そこにもう一度立ち返ろうと思うようになりました。ホムブロイヒでは、すべて同じ日常、同じ空間の中にその出来事があるというふうに見せられたらとてもいいでしょうね。
それと現在、ホムブロイヒのために昨年のテキストに加えて新しく文章を書き、ドイツ語に翻訳して、ドイツ人の方に校正していただいているわけですけれども、30年前のことを振り返っています。1990年代、ホムブロイヒから1時間半南下したケルンで大学院生活を送っていたわけですけれども、それは映像をつくり始めたり、映像で空間を立ち上げることを始めたりした時期のことでもありました。また、修士論文のために、その頃の思考と感覚を一生懸命ドイツ語で言語化している時期でもあったので、意識していなかったものや感覚的に捉えていたことや言語未満の思考、母国語ではないからこそ、言語と思考と感覚のすり合わせを必死でやっていたので、その頃の手探りの感覚が、今回の制作プロセスの中で蘇っているようなところがあります。また、公開制作にしていくので、これも未知の体験であり、この展示が終わった後、どんなことを考えているのだろうなと思っています。これからの制作に、もちろん、映像も取り入れられることはまたあると思いますけれども、それもどのようなものになっているのだろうなと思います。
///
聞き手:島﨑みのり