【リタ・セガート】家父長制:端から中心へ (1/3)公共圏とジェンダー
ここで紹介するテキストはリタ・セガートの「Patriarcado: Del borde al centro. Disciplinamiento, territorialidad y crueldad en la fase apocalíptica del capital」というものです。「家父長制:端から中心へ ー資本の終末期での「しつけ」、縄張り、残酷性ー」は私が訳したタイトルです。記事は要点をまとめるつもりで書きました。
一部は英語でも発表されていています。もっと詳しく読みたい方で英語が読める方は、そちらをご参照ください。媒体はこちらです:The South Atlantic Quarterly, vol. 115, no. 3, 2016, (Patriarchy from Margin to Center: Discipline, Territoriality, and Cruelty in the Apocalyptic Phase of Capital)
公共空間の歴史は家父長制の歴史である
セガートはラテンアメリカの歴史の中で植民地とモダニティー(*1)がジェンダー観と公共空間にもたらした変化をなぞる。植民地支配は南米の「村世界」(*2)に介入することで女性と女性に関することを全て「マイノリティー化」した。マイノリティー化は女性を(男性よりも)低い存在と見なし、プライベートな空間に付託し、マイノリティーとして扱い、よってこのグループの訴えや関心ごとは重要ではないと断定する行為だ。
それでは村世界では空間とジェンダーはどういう関係だったのか。それは相互作用が発生する「二重性」(ドゥアリティduality)の世界だった。公共空間には男性とそれに伴う活動(政治と仲裁、商業と戦争など)、家庭空間は女性とその活動、という構成はあり、ヒエラルキーがなかったわけではない。しかし何が違ったかというと公共空間(男性的空間)が家庭(女性的空間)を包摂するということではなかった。また、家庭という空間=プライベートな空間という認識もなかった。つまり、「内と外」という関係はなく、また「公共」こそが価値があり、社会を表したり測ったりする完全性のあるものという意識もなかった。
植民地支配が始まってこれがどう変わったのか。簡単に言えば、元々あったドゥアルなジェンダー観とヨーロッパのバイナリーのジェンダー観をすり替えたのだ。そうなることで相互作用でバランスが取られていた「公共」「家庭」とそれに伴うジェンダーから、「公共=外」と「家庭=内」、さらには前者は価値のあるもの、後者は価値の低いもの、という構図になったのだ。また、「公共=外」で活動できる男性像(男性性)が「白人」(さらに土地保持者で文字の読み書きができ、家父であること)と同義になった。
ドゥアルとバイナリーという言葉の違いについて少し掘り下げてみたい。和英辞書で引くとどっちも「二元/二重」となっている。しかしセガートは明らかに使用上の違いを示している。そこで、ここではドゥアルを日本語では「二重」、バイナリーを「二元」とする。ドゥアルの場合、AとB、両者はそれぞれ「完全」であり、同じ価値がある。相互作用しながら社会機能として役割を果たす。一方、バイナリーの場合は二つの内Aが完全で価値のものであり、Bは「Aじゃない方」である。Bは常にAではないことがアイデンティティーである。Bは不完全な存在である。依って差別や抑圧される対象になることが多い。
モダニティーは様々なバイナリーを元にした権力構造を以って植民地の先住民や文化を評価し、支配を正当化した。「文明化されたヨーロッパ/新大陸の野蛮な先住民族」「キリスト教=唯一真の神を拝む信仰/悪魔に取り憑かれている先住民族」など、自分たちは「完全で正しいもの」を持っていてそれを持っていない民族は支配されて仕方がないと考えていた。もちろん、その完全性や優位性を図るのは自分たちの物差しである。
こうして公共空間だけが完全なものとされ、さらにはそこにいる権利は白人男性にあるという基準を設け、「村世界」を崩したのだ。物理的な「公共空」(public space) は徐々にもっと抽象的な「公共圏」(public sphere) と化す。公共圏は社会の中心になり、さらにその中心には「完全な主体」である支配者がいる。つまり、外の世界、完全な世界は支配者の世界。内の世界、不完全な世界は先住民コミュニティー。そうなると、公共圏での活動が許された先住民男性は支配者の暴力性を自分のコミュニティー、内の世界で再生することになる。支配の負の連鎖が始まる。
家庭空間が「内」となり、プライベートであるという概念が生まれ、政治性や価値が奪われることで、もちろんそこに閉じ込められた女性の社会的立場や価値も奪われるのだ。家庭空間は公共圏の「残余」として、存在価値が否定され、社会の端っこに追放される。そしてセガートは女性の場所を取り戻す運動についてこう振り返る:
私たちが分解し、反対し、書き換えなければいけないのは、モダニティーの植民地構造が生んだ「残余価値」という女性の宿命である。現在も社会に蔓延する問題の元凶はこのバイナリー構造と「マイノリティー化」の陰謀である。女性たちが虐げられている家庭内暴力や現代の"非公式"な戦争を読み解くことで、社会が辿った歴史的な変化全体を可視化することができる。そう言う意味では、社会全体に向けて発言する力や女性の存在価値を復活させ、取り戻すことはまだできる。私たちはそれを1970年代に、時代のスローガンとも言える「個人的なことは政治的なこと」を掲げすでに試みていた。それは次期に法律や公共政策という形の戦いになったが、結局書面以上の変化や成功に繋がらなかった。それはもしかしたらベストの方法ではなかったのかもしれない。フーコーが早期から気づいていたように、監視システムの下で生活したり法をベッドルームに招き入れるなど、北米では一般的になったようなことは望ましくないのかもしれない。だとしたらそのような工程は面白くも賢明でもなかった。最終的に、「ジェンダー」という暴力的で収用的な構造はどこにも消えていなかったのだから。
一種の解決策としてセガートは真の複数性を保った空間への転換を提示する。そのためにはまず公共圏の男系への不信感をもち、公共圏が作り上げた完全な単一性を取り壊すことから始まる。
今ある単一の公共圏の破壊力は、公共圏が普遍的な価値や価値観でできていると民衆に思わせる権力を保持していることだ。それによって政治的な表現を乗っ取っては、完全性、中心性、普遍性など曖昧な概念を提示している。しかし公共圏はいつだって男性性を内包しているわけだ。その男性性を「完全で普遍的」であると公共圏は主張する。
南米の民主主義国家の多くは「マジョリティーによる独裁政権」の方向に向かっているとセガートは警鐘を鳴らす。複数性を維持しない民主主義は、例え過半数の意思を反映できても民主的ではいられないと明言する。
その理由をセガートの言葉で締めよう。
それはなぜか?それは、公共圏に誘導されているからだ。公共圏はバイナリー(二元)に設計されたもので、よって区別されたりマイノリティーとみなす主体(女性、子供、黒人、先住民、多様なセクシュアリティーの人)を「完全な主体」に対しての「異例」として扱うからだ。そうした集団意識の中、「異例」とされる人間は、国家に乗っ取られた政治用語を語るにはある種の変装をしなければならない。しかしあらゆる「〇〇問題」を体現している気持ち悪い「異例」として扱われ続けるのだ。それはこれまで、そしてこれからもコロニアル・モダニティーがもたらす未消化の問題であり続けるのである。
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【リタ・セガート】家父長制:端から中心へ (2/3)残酷な世界の作り方
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*1 モダニティー:ヨーロッパが植民地支配を始めると同時にラテンアメリカに持ち込んできた世界観。主に、物事を善悪などバイナリー化し、人種のヒエラルキーを正当化し、ヨーロッパやキリスト教のグランド・ナラティブ(メタ・ナラティブ)を押し付けてきた歴史。
*2 村世界:西:mundo-aldea、英:village world。植民地前の南米民族の社会を指すためにセガートが使う造語。しかし日本語の「村社会」という意味ではないので要注意