いまさらドラゴンボールの話
最近、いろんなVtuberが「ドラゴンボールZ カカロット」を実況プレイしている。そこでふと思った。
意外と、ドラゴンボールを読んだことがない人って多いんじゃなかろうかと。
世界規模で有名な作品であり、登場人物やその相関関係、ミーム化した様々なセリフ、大雑把な展開など、調べなくても情報が入ってくるほどの作品だ。だから、今さら改めて読む気が起きないという人も、けっこう多いんじゃないかと。
実は僕もそうだった。僕は幼少期をドラゴンボールにほとんど触れることなく育ち、受動喫煙による接種だけで過ごした期間というのが非常に長かった。
なにぶん、直撃世代のカルチャーというものに触れる機会が、他の人に比べて少ない方だったという自覚はある。はねるのトびらだって見たことない。ドラゴンボールもスラムダンクも読んだのは大人になってからで、クロノ・トリガーも大人になってからプレイした。ドラクエ、FFはナンバリングシリーズをプレイした経験がない。
僕の周りにはドラゴンボールを読んだことがない人間などいなかった。僕の周りだけではない。インターネット全体が、ドラゴンボールは基礎教養であるかのように扱っていた。僕はいわば「ドラゴンボールミリしら人狼」に放り込まれたようなものだった。だが、今更になって人々は「ドラゴンボールのあのシーンが良かった」などとは語り合わないのだ。だから、ボロは出なかった。
受動喫煙が長い人ほど、ドラゴンボールを読もうという気は失せるものだ。
ミームと偏見を刷り込まれ、物語の展開も知ってしまった上で、楽しく読めるとはなかなか思えない。実際のところ、僕も読んでみるまではそういう恐怖があった。「銀魂」を読んでも「ボボボーボ・ボーボボ」を読んでもドラゴンボールのネタが出てくる。言ってしまえば、いまさら「桃太郎」を読むような気持ちに近かった。
悟空の話
鳥山明の画力がぶっ飛んでいるというのは、さすがにわかる。
それでもドラゴンボールにポジティブな印象を抱けなかったのは、「雑なインフレ漫画」という偏見があまりにも強かったためだ。「繰り返される強敵の絶望感」と「どうせそれでも勝てるんでしょ」と「死んだり生き返ったり」の3つのサイクルがぐるぐると存在しているイメージだ。これははっきりと、世に流布されているミームや偏見のよくないところが出ていると思う。
では実際読んでみるとどうだったか。
実際、過剰なインフレ展開には「うーん……」と感じることがなくはないものの、どちらかと言えばキャラクターの変化や成長が鳥山明の画力で余す所なく表現されており、全編通して見応えがあった。個人的なベストバウトは悟空vsフリーザだが、調べてみると世間の意見もおおよそそこに落ち着くらしく、そりゃそうだよなという感じ。ブウ編ラストの総力戦感もかなり好きなんだけど、ベストバウトとなるとフリーザ戦だろう。
初見で印象的だったのは、「スーパーサイヤ人」の引っ張り方だ。僕らはもう逆だった金髪の姿を知っている。だが、作中ではドドリアからベジータにその名が語られて以降、「伝説の超サイヤ人」とやらがなんなのかわからないまま話が進んでいく。ベジータが「オレは超サイヤ人になった」と繰り返し語るだけで、そのままでは「うーん、まぁ、そうなのかな……?」と首を傾げながら読んでいくことになる。
第4形態のフリーザの攻撃に初めて悟空がカウンターを決めたことで、ベジータは今度は「カカロットは超サイヤ人になった」と語る。実際、ここでの悟空の頼もしさは半端なものではなく、読者は「おお、やはり悟空が伝説の超サイヤ人に!」と思ったはずだ。だが元気玉によって倒されたはずのフリーザが、ピッコロを撃ち、クリリンを爆殺し、そこで初めて悟空の姿が変わる。これまで散々、言葉で「超サイヤ人」と説明されてきたものが全部ただの勘違いであることを、ビジュアルだけで証明するのだ。読者は直感的に「これが本当の超サイヤ人だ」と理解する。この流れはすごい。鳥山先生の画力は確かに飛び抜けているが、その画力を効果的に活用する構成や、演出力にも優れていると思った。シンプルに漫画力が強い。これまで、ザーボンやフリーザで「姿が変わると強くなる」ということを散々アピールしていたのも効いていると思う。
ただ、フリーザ戦がベストバウトに挙げられるのは、他のボス戦ではあまり感じなかった後味の決着も大きいと思う。
余裕がなくなっていくフリーザを追い詰める読者の爽快感とは裏腹に、冷めていく悟空。悟空が好きなのは「戦い」であって暴力ではないと感じる名シーンだ。その後、自分の技の巻き添えを喰らって自滅しそうなフリーザに「伏せろ!」と叫んでしまうところ、命乞いをするフリーザに対して葛藤を見せながら気を分けてやるところ、背中を撃ってきたフリーザに咄嗟の反撃をしてしまった後の、なんとも言えない表情。全部好きだ。
他の章ボスであるピッコロ、ベジータ、セル、ブウのいずれとも違うフリーザの異質なところは、あの時点で「折れて」しまっていたことで、だから他の章ボスでは見られない悟空の一面が見られた。フリーザを動かしていたのは戦意などではなく「戦意を失った極悪人」に対して悟空がどう振る舞うかが見られる貴重な場面だったと思う。
ベジータの名言としてしばしば挙げられる「おまえがナンバーワンだ」。そこに至るセリフに「戦いが好きで、やさしいサイヤ人なんてよ」というものがある。正直、このセリフはドラゴンボールの話をきちんと追っていないと実感が得られないだろうなと思った。「戦いが好きでやさしいサイヤ人」というのは、少年漫画の主人公ならば持っていて当然のパーソナリティだ。このセリフの重みは、セリフだけで感じ取れるものではないだろう。まぁ、漫画の名言ってだいたいそういうもんだけど。
ベジータの話
初見で印象深かった他のキャラクターと言えば、やはりベジータだ。
「ドラゴンボールのキャラの中で好きなのは悟空とベジータ」というなんの面白みもない回答になってしまうが、人気のあるキャラクターにはそれだけの実績と理由があるんだなとわかる話でもあった。セル編の戦犯ぶりはさすがに擁護できないとしても、フリーザ編とブウ編のベジータの振る舞いは、やはり心に迫るものがある。
僕が初めてベジータに心を鷲掴みにされたのは、悟空vsフリーザが始まる瞬間のことだ。
正直それまでは、「好戦的で面白い男」くらいの印象だった。行動も悪人寄りで好感を抱く余地も少なく、「面白いから好きなキャラ」であった。好戦的な割には何かとせこい場面も多かった印象だ。
だが、今際の際に悟空に託したセリフで、過去のベジータにまで波及してさまざまな印象が塗り替えられた。
男が目に涙を滲ませてまで悔しがるシーンに、僕は弱い。故郷を滅ぼされたことになんの痛痒も抱いていなかったように見えたベジータが、涙ながらに惑星ベジータ消滅の経緯を語り、「サイヤ人の手でフリーザを倒してくれ」と頼むシーンには、ベジータという男がどういう想いでこれまで生きてきたのかが詰まっている。ベジータほどのプライドの高い男が、故郷を滅ぼした男の下で働く屈辱、それに手も足も出ないだろうという現実。きっと、汚泥を啜るような日々であったに違いない。だがベジータは、地球を訪れた際に「ドラゴンボール」という希望に出会ってしまうのだ。
結局、願いは叶えられず、フリーザにはボコボコにされる。ベジータはここで一度折られてしまっているのが印象的だ。ゾロvsミホークの「こんなに遠いはずはねぇ!」に近いものを感じる。ゾロは折られなかったけど。
ベジータは、このフリーザ編で3つの希望を与えられている。
ひとつがドラゴンボール、ひとつが超サイヤ人の存在だ。いずれもフリーザと戦うための手段であり、特に後者に関してはサイヤ人としての自尊心を回復してくれたに違いない。しかし、どちらもフリーザの前では儚く折られてしまった。超サイヤ人に目覚めたと思っていた自分は、フリーザに歯が立たず、そしておそらく「不老不死になったとしてもフリーザには敵わないのではないか」という思いがよぎってしまったに違いない。
バッキバキに折れたベジータの前に降り立った最後の希望が、フリーザに一撃を喰らわせるサイヤ人=カカロットの存在だった。ここで悟空の威を借りてフリーザを煽るベジータの姿は、彼がこれまで舐めてきた苦汁を感じさせる。「敗者が他人の威を借りてイキるだけのシーン」と嘲笑できない凄みがあると思う。
悟空がこのあと、初めて「サイヤ人」を自称することも含めて、象徴的な場面だ。
この後なんだかんだ立ち直るベジータだが、カカロットがフリーザを倒したことを知って「最強」への執着がぶり返したように見える。これまでのベジータは言わば、彼自身の野心とサイヤ人の誇りに対してフリーザの存在が蓋をしていた状態だった。だが、カカロットはサイヤ人が最強であることを証明したのだ。ベジータにとっては希望であり、同時に、その証明をしたのが自分ではなかった事実に対する不甲斐なさもあったに違いない。
セル編でのベジータはセルを完全体にするという大戦犯をやらかす。何がなんでも自分を最強だと証明する必要があったわけで、不完全なセルを倒してもベジータがスッキリしないのは、まぁ仕方がないだろう。結果として悟空は死ぬんですけどね。
それまでも悟空との力量差を気にする場面はあったが、ベジータの執着の対象が明確に「最強」から「カカロット」に切り替わったのは、セル編を通してだろう。さすがにこの顛末にはショックを受けて戦いから身を引く発言していたし、この後もサイヤ人としての最強を証明したいなら、悟空の死亡後も悟飯に粘着していたと思う。
そしてブウ編だ。「平和への順応」への拒絶が大好きな僕にとっては、たまらないベジータであった。戦いの中で生きてきた者が、「自分は平和に順応できない/したくない」という葛藤から過ちに手を染める展開。だが、ベジータの場合は「悪くない気分だった」「地球が好きなってしまっていた」とはっきり口にしているのがいい。自分自身に解釈違いを起こしている様子もよければ、「なんのしがらみも気にせずただ悟空との戦いを楽しみたかった」というセリフに、「取り戻せない青春への執着」を感じさせるのもイイ。だが、結局は今に至るまでに得てきたものから目を逸らしたりはできないのだ。
この感情は、悟空が1日だけ蘇ると聞いた時にぶり返したのかなと思った。悟空と戦えないことに苛立つベジータの姿が、かなり印象に残っている。あとあれだ。ポタラを渋るシーンね。結局、極悪人になって悟空と戦ったときも、悟空は超サイヤ人3になっていなかったわけで、ベジータからすればバカにされた気分だろう。本心を吐露してなおカカロットは本気で戦ってくれなかったのだ。ここはシンプルに面倒臭い彼女みたいで最高だった。
あとから「悟空は本気じゃなかった」というケチはついたものの、ベジータの心情吐露はかなりアツいシーンだった。このあと、トランクスが生まれてから一度も抱いたことがないと言うわけだが、つまり悟空が死んでからもずっと「平和への順応」に対するモヤモヤした気持ちがあったのではないかと思う。それを吐き出した時初めてベジータは「悪くない気分だった」と認めることができ、それがトランクスとの別れの名シーンに繋がったわけだ。
ニコニコ動画の隆盛やさまざまなミームによって、ベジータにはヘタレのイメージが植え付けられている。確かに情けないシーンも多いベジータだが、ヘタレというのは少し違うなと思った。ベジータの情けないシーンは、主にフリーザ編での印象によるものが多い。個人的な解釈だが、これはフリーザの圧倒的な強さによってサイヤ人としての誇りに蓋をされているからだ。「戦闘民族サイヤ人」の誇りは、この時点でのベジータにとっては張子の虎であり、ドラゴンボールと超サイヤ人の伝承によって一時的に希望を取り戻すものの、結局はそれも木っ端微塵に叩きのめされてしまう。
だが、そんなベジータもカカロットが最強を証明することによって救われたのだ。真の意味でのサイヤ人としての誇りを取り戻したわけである。セル編では大戦犯をやらかしたベジータだが、ここでも再度の特訓とリベンジを誓っている。フリーザ編後のベジータは、なんのかんの言って心が折れるようなことはないんじゃないかと思った。なので、ブロリーを前に「もうダメだ、おしまいだぁ」と言っているベジータはちょっと解釈違いである。
〆
ドラゴンボールの記事を書く気になったのは、冒頭で語った通りいろんなVtuberが「ドラゴンボールZ カカロット」を実況プレイしているからだ。「ミームは擦るが原作は未履修」という配信者が意外と多くて、自分もそちら側の人間だった時のことを思い出した。
クリリンがめちゃくちゃ良いやつだとか、ハイスクール編の悟飯とか、思ってたより死んだやつは簡単に現世に帰れなかったとか、まだまだ語り足りない部分はあるのだが、いったんはここまでにする。
ちなみに読む前と後の印象がまったく変わらなかったのは、ミスター・サタンでした。