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大熊が自分ごとになって生まれる矛盾。「伝えたいけど、言いたくない」がある。

先日、福島県立博物館で始まった「写真展 福島、東北 ~写真家たちが捉えた風土/震災」の企画で、3人の写真家のトークイベントに参加した。震災を一つの契機にそれぞれに福島と向き合った写真家3人が、写真という媒体に込めた気持ちを作品を目前に聞けて面白かったのだが、私は、トークの間、自分の閉鎖性に動揺していた。

写真家の一人が、展示に絡めて震災直後に訪れた避難自治体での活動とその後の行動を自己紹介した、その説明にいらだったのだ。それは反射と言っていいと思う。ーー除染されていない土地を歩いた靴を、捨てられずに自分は持っている、それを今回写真とともに展示したーーという説明。
まず、その靴は捨てる前提のものなのかという違和感。そして、靴を特別なモノとして福島を写した写真とともに展示する行為に感じる、その土地と自分がいる場所との線引き。私の中で「その土地」は大熊に通じる。

これは、その写真家の気持ちじゃない。彼はそんなことは言わなかった。ただ、震災から12年目に大熊で暮らす私が、説明にあった言葉の要素から、勝手に彼と私の間に線を引かれたと感じ、反射的にいら立ちを覚えただけだ。
正直、今回だけじゃない。大熊やほかの避難を体験した地域に対するちょっとした言葉をとらえては、話し手のこの地への姿勢をジャッジして、心のシャッターを即座に下ろすようなことはこれまでもあった。

大熊町に住んで4年目。この地域にいることが日常となるにつれ、失われる客観性というか、外部からやってきた人がこの土地を特別視する表現や、被災地としてくくる表現に反発を抱くことが増えた。それが肯定的な表現でも否定的な表現でも変わらない。
「町民に意識が近くなってる」と言われるとそうだけども、一方で、私自身、外部からやってきた上に、おそらく大熊町が被災地でなかったらここに住んでいない。「おい、いつどうして反発できる身分になったんだ」と、この自己矛盾を自分に突きつける程度には客観性を保っているようだ。

私が、自分が住んでいるこの土地を実は特別視してることも、一方でここは私のフツーの日常生活の場であることも、どんどん私にとって「個人的なこと」になっている。私も持っていた、被災地を伝えていく気持ち、公共性みたいなものが薄れていく。個人的なことを声高にいうのはめんどくさいし、知らない誰かに理解してもらう云々じゃない。そして、「わかってもらいたい」の代償というか、結果認めてもらえなかった場合に返ってくる矢は、自分の暮らしへの否定として突き刺さるから不安と煩わしさがついて回る。それはやはり移住して、ここが私の日常になるにつれての変化だと思う。
あの写真家の話に、私は否定のにおいを嗅いで、先んじて心を閉じた。

冒頭の、転がったダルマの写真。11年間、人が住まなくなった家にいれてもらったときに撮った。泥棒にも入られた、野生動物にも入られた、かつて家族4人が住んだそのお宅は、まもなく解体される。その前に「見る?」と言って、入れてくれた。その「見る?」は、誰にでも向けられるものではないと思う。少なくとも、私は彼女とその家族の尊厳を傷つけないだろうという信頼の下に、見せてくれたと思う。そして、彼女にも「見せておきたい」つまり「伝えたい」という気持ちは多少なりとも、あるのだと思う。だから私には、これを見て伝えることが私の役目だという気持ちが、ある。

当事者でないと分からないことがある。私は避難者じゃないし、被災者じゃない。2011年3月11日にここにいた人の気持ちは、どれだけ想像力を駆使しても分からない。分からない、と思うことを忘れたくないと思いつつ、それと別に今、大熊に生きる私が何を思い、どう変わるかは私の経験として面白がりたい。個人的に。
できれば、いろんな人がこの町やこの地域で経験することも同じように尊重したいと思うけど、偏屈に構えてしまうのが今の自分だ。
ここにいることで知ることができる3.11の当事者の気持ちは、できるならばいずれ伝えたい。当事者だから公に伝えないこと、自らは語らないことがあることは、今は少し分かる。

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