残るもの、残すもの。
通訳と翻訳
語学に関係することを職業にしようと考え始めた頃、私は通訳の勉強と同時に翻訳の勉強もしていた。どちらにもそれぞれ魅力を感じていたからだ。しかしあるとき、通訳は自分の性に合わないと思った。理由は、通訳の仕事は『あとに残らないから』。もちろん、話者の話の内容は通訳されてどこかに記録されたり、誰かの心には残るかもしれない。しかし、当時の私は自分が仕事をしたという何らかの『証』が欲しかった。書き物は確実にどこかに記録として残る。とはいえ、通訳や翻訳は『黒子』なので、自分が目立つことはない。だからある意味どちらをやっても『残らない』のであるが、たとえそうであっても、翻訳した際に自分がこだわった言葉や言い回しがその証として残る方が私には好ましかった。『残したかった』と言った方がいいかもしれない。
『残る』『残す』とは
大辞林によると、『残る』とは(意味がいくつかあるが、今回書く内容に関連した意味のみ記します)①失われたりしないで、もとのまま保存されている。もとの状態のままである。②後世に伝わる。③ある事の結果として生じたものがそのままとどまる。
『残す』とは、(こちらも意味がいくつかあるが、今回書く内容に関連した意味のみ記します) ①失ったりしないでとどめる。保存する。②後のために書き記して保存する。③後世に伝える。④ある事の結果として生じさせる。
とある。ポイントは『保存』と『後のために』だろうか。
私たちは、生きるために必要なたくさんのものを残さずに生きる。日常の食事は大切だといわれているのに、目的がない限りはその内容をいちいち覚えていない。また、風邪を引いた、お腹をこわした・・・などといったことはいつのまにか忘れている。しかし、大事な予定をキャンセルせざるを得なくなった時引いた風邪だとか、ひどい悲しみはちゃんと記憶にとどめている。これは「後の人生でまた同じことを繰り返したり、悲惨な思いをした時に対処するため脳に積極的に刻んでいる」のではないかとも思う。記念日の食事は、食事そのものだけでなくその場の雰囲気も合わせて記憶に『残り』、後々の自分の心の宝になってゆく。
ライブイベントと配信
コロナ禍で音楽や演劇など各種パフォーマンスのライブイベントが中止になり、その一方で一気に注目されたのがライブ配信である。ライブイベントも配信も、どちらも「残り得るもの」であり、また「残らない可能性」もある。ライブイベントは基本的に形としてはその『場』を楽しみ、その場自体は形に残らない(記録として映像や音声など何らかの媒体に残さない限り)。しかし、素晴らしい(または色々な意味で忘れられないほど衝撃的な)パフォーマンスは観た者の中に確実に残る。アーティストたちは意識せずとも自らの中にライブパフォーマンスの軌跡を残す。形に残らないライブパフォーマンスというものを、演者と観客が一緒になって人の心に『残しあう』こと・『残りあう』こと。これこそがライブの醍醐味、そしてまた厳しさではないかと思う。そして、配信は『場』よりもよりパフォーマンス自体のクオリティが注目されがちなので(チャットで臨場感を分かち合うという方法もあるが、つまらなかったら気軽に画面を消せるというのが一番の特徴だ)、コロナ後は今まで以上にパフォーマンスを『残す』パフォーマンスが『残る』力量がシビアに試されてゆくのではないかと個人的には思っている。そして、ライブイベントも配信もそれぞれの良さがあると思うが、やはりイベント自体の内容もさることながら、そこに足を運んだこと、会場の雰囲気、その時会った人、その後した食事といった要素もセットになって思い出になり、後の各々の糧になるという面では、ライブイベントは決して失われてはならないと思う。
かたちに『残す』もの
絵画や書・オブジェ、アイデア、書物、映像・画像・音声など、ありとあらゆる『残すことを前提にして考案・創作されたもの』のスタートは『個』にある。ある人間から生まれた発想が形になり、形になるまでに、それを生み出した人間の喜び・苦悩などのありとあらゆる感情や完成までの日々が刻まれていく。そして『個』が『公』に差し出された瞬間、生み出されたものは作者から離れていく。受け取った一人一人がそれを感じ、後に伝えようと思ったり、胸の内に思いをとどめたりする。私はいまだにレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』がなぜそんなに素晴らしいのかその魅力が理解できずにいるが、ダ・ヴィンチがあの婦人をモデルにして絵画として完成させたおかげで、そしてその後誰かがそれを引き取って、数百年の間数えきれない人々があの作品をケアし、紹介し、鑑賞しているからこそ、遠いイタリアで生まれた絵画のことを自分は知って、自分なりに感想を述べているのだ。そして、『何か気になる』ということイコール心に『残っている』わけで、モナ・リザの魅力とはどこにあるのかを考えつつ同時に自分の中に知識としてある色々な他のものと紐づけている。そしてまた、私がここでモナ・リザについて意見を述べることで、読んでくださる方達の中にまた新たなモナ・リザ感が生まれるだろう。差し出されたことで、思考は紡がれる。
人生での取捨選択
こうして改めて考えてみると、人間が日常においていかに多くのことを意識的・無意識的に「残すか」「残さないか」取捨選択しているかということに気づく。いまやすっかり日常的に使われるようになった『断捨離』という言葉は、身の回りのものを処分することで、自分が自身にとって本当に大切なものは何かを知ることだといわれている。まあ、人間死んだらお金も物もあの世に持っていくわけにはいかないが、そこまで今は考えないまでも、日々を快適に過ごすために自分にとって大切なものは何か、何を手元に・胸の内に残すかを考えてみるのも、たまにはいいものではないだろうか。こんまり術じゃないが、自分がときめくものに囲まれるというのは、単純に気持ちがいい。心の中にも、身の回りにも、快いものを携えて生きていきたいですね。
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