JPモルガンと死の商人
「モルガン 死の商人」という呼称の背後には、ジョン・ピアポント・モルガン(J.P. Morgan)の個人としての影響力だけでなく、彼が関与した金融の仕組みや戦争経済における役割が深く関わっています。以下では、モルガンの生涯とそのビジネスに焦点を当て、どのようにして「死の商人」と呼ばれるようになったのかをさらに詳しく掘り下げます。
1. ジョン・ピアポント・モルガンの銀行家としての台頭
ジョン・ピアポント・モルガンは、アメリカの産業革命期において、金融業界で非常に大きな影響力を持つ実業家でした。彼は、モルガン・スタンレー銀行(当時はJ.P.モルガン&カンパニー)を通じて、アメリカの鉄道業界や製造業に投資し、企業の合併や再編成に関与しました。
モルガンはその財力と経済的影響力を活かして、企業の再編を進め、アメリカ経済の構造を大きく変えました。特に鉄道業界においては、彼が資本を投じて多くの鉄道会社を統合し、アメリカの鉄道網の整備に大きく貢献しました。これによりモルガンは「アメリカの鉄道王」とも称されるようになりました。
2. 戦争と商業活動
モルガンの名前が「死の商人」と結びつく直接的な理由は、彼が戦争経済に深く関与していたことです。特に、第一次世界大戦(1914-1918)中におけるモルガンの活動が批判の的となりました。
第一次世界大戦と連合国への支援: モルガンは、戦争の開始時にイギリスをはじめとする連合国への大規模な融資を行いました。モルガン・カンパニーは、戦争が続く中で連合国への資金調達や物資供給を行い、その過程で多大な利益を得ました。このような商業活動は、戦争を加速させる一因となり、戦争による死者が多く出ることを考えると、彼のビジネスモデルが「死の商人」と呼ばれる原因となりました。
武器供給の役割: モルガンの銀行は、連合国に対して武器や弾薬などの軍需物資の供給を行っていました。これらの商取引は、戦争の遂行に必要不可欠なものであり、彼の銀行はその取引の中心的な存在となりました。戦争に関連する商取引で莫大な利益を得たモルガンは、軍需品を供給することによって戦争を経済的に支援していたと見なされ、その結果として「死の商人」とのレッテルがつけられました。
中立的立場からの批判: アメリカは第一次世界大戦初期には中立を維持していましたが、モルガンがイギリスやフランスに対して多大な融資と物資供給を行ったため、アメリカ国内の一部からは「戦争を煽る商人」という批判が集まりました。このような商業活動が、アメリカ政府の戦争参戦を後押ししたという意見もあります。
3. モルガンとアメリカ政府の関係
モルガンは単なる銀行家にとどまらず、アメリカ政府とも深いつながりを持っていました。特に、彼が大規模な政府融資を手掛けたことから、政治的にも重要な役割を果たしていました。
政府の金融支援: モルガンは、アメリカ政府が直面した経済的危機においても重要な役割を果たしました。たとえば、1895年の金準備不足時には、モルガンがアメリカ政府のために金を調達し、アメリカの通貨の安定を図りました。このような金融支援により、モルガンは「政府の金融家」としても知られるようになり、政治家との繋がりが強化されました。
政府と企業の癒着: モルガンが政府の要請で金融支援を行う一方で、その背後には企業と政府の間で利益が共有されているとの疑念も生じました。特に彼の銀行が連合国に融資し、その対価として莫大な利益を得ていたことが批判を呼びました。
4. 「死の商人」呼称の影響
モルガンが「死の商人」として批判された背景には、彼の商業活動が戦争の継続と拡大に寄与し、結果として多くの命を奪うことになったという反感があります。戦争で死傷者が増える中、彼のような銀行家が利益を得ていることは、当時の多くの人々にとって耐え難い現実であり、その結果としてモルガンは冷徹で利益優先の「死の商人」と呼ばれるようになりました。
5. モルガンの遺産と評価
モルガンの遺産は一概に悪いものばかりではありません。彼が成し遂げた企業の再編や、アメリカの産業発展への貢献もあります。モルガンの影響力はアメリカ経済を近代化する上で大きな役割を果たしましたが、その過程での倫理的問題や、特に戦争との関連から批判を受けた点も多く、評価は分かれることが多いです。
モルガンの業績を評価する際には、彼が築いた企業帝国や、経済的安定への貢献と、戦争経済への関与による利益の問題という二面性を考慮する必要があります。
結論
ジョン・ピアポント・モルガンは、19世紀から20世紀初頭のアメリカの経済界で圧倒的な影響力を持っていた人物ですが、その商業活動が「死の商人」という呼称を生む結果となりました。特に、彼の銀行が戦争の遂行において重要な役割を果たし、その利益を得る姿勢が戦争を長引かせ、数多くの命を奪ったことに対する反発が、「死の商人」というレッテルを生んだのです。