【連載小説】9話 トイは口ほどにものを言う
「店長、明日は休みでしたっけ?」
美弥子は店内外に貼られた、火曜臨時休業という張り紙を見ながら悟に聞いた。
「んー?そうそう。配管工事が来るって前々から聞いてたから、折角なら明日と明後日で連休にしようと思ってさ」
「連休、ありがとうございます」
「いえいえ、ブラック企業から抜け出せてこっちもホッとしてます」
あはは、と二人並んだカウンターの中で備品の片付けをしながら笑いあった。
あと幾日かで9月になる月末の店内。美弥子は前回の休みから4日しか経ってないなぁと壁にかかったカレンダーを振り返る。でも週1しか休みのなかったブラックの頃を思えばありがたい話よね、とふふっと笑った。
ふと見た窓の外はとっぷりと日が暮れていて、景色はもうあまりわからなかった。まだまだ暑い盛りだけれど、さすがに夜の7時を過ぎたとなれば外は暗くなっている。もうオーダーはストップしたから、残る一人のお客さまが退店すれば今日はもうおしまいだ。
この時間になると、もう店内を見回る必要がないだろうと、美弥子のトイは彼女の頭の上に座って、ニコニコと笑顔を見せている。
トイというのは主人が大好きな生き物であるから、ご主人と触れ合う事は彼ら的にとても大事な事、らしい。
美弥子にとっても、トイが頭の上に座っているのは、あるかないかくらいの重みを感じるだけでなく、どこか満たされるような温かい気持ちになれるので好きだった。
特に今、少し心がささくれ立ってしまっている状態には、効果は覿面で。
ふと暗い感情に落ち込みそうになったタイミングで最後のお客が席を立った。美弥子は手にしていた布巾を置き、笑顔を作ってレジへ向かう。
「ありがとうございます、お会計は900円になります」
「これで」
渡される千円札を見て、手早くレジを打ちお釣りとレシートを返す。
「お釣りとレシートになります」
「ご馳走様でした」
ぺこりと会釈をしながら言ってくれたのは常連の大学生だ。さらりと言ってくれるその一言で、美弥子たちがどれだけ嬉しいか。
「ありがとうございます」
心からの笑顔で返事をすると、頭の上でトイもぺこりと頭を下げた気配がした。そして、ドアをくぐって出ていく彼に、もう一度ありがとうございましたーと声をかけて、美弥子も少し時間を置いてから外へ出て見送る。
ドア外の札をclosedにして、ドア脇に置いてある黒板を店内へ持って入るついでだ。あとは店内の片付けをすれば、今日はおしまい。
ふぅ、と息をついた事で、どっと肩に疲れが戻ってきた気がする。
肩に手をやりながらふと顔をあげたら、店長と目が合ってしまった。
「ほい、もう少しだから頑張って」
「はーい、解ってますって」
軽口を叩くのも、いつもの事だ。もうすっかりお互いの手順もなにもかも解っている。カウンターの中の片付けを悟がやって、美弥子はテーブルを拭き箒で軽く掃除をしておしまいだ。
意識しなくても手が覚えているから、つい頭の中で違う事を考えてしまう。
今日も、店長のトイはカウンターの上に居なかった。
そうはいっても、ずっとではなくて、ちょいちょい出てきていて、30分とか、座っていた時間もあったけれど。あとは、トックスにしまってしまうのではなくて、店長の胸ポケットに入っていたりとか。
彩矢もいない忙しい日なのにこんなにも気にしてしまうくらいには、もうずっと彼と彼のトイの動きを目で追ってしまう。
こないだの日曜、恐らく元カノだろう女性が来たことで、いつになく弱気になって泣いてしまった。でも、と美弥子は日曜の昼に聞いてしまった話の内容を思い出す。
冷静になってみれば、あの元カノさんは追いすがってたけど、店長の側はというと、やれやれという風なのが感じられた。はず。
彼のトイだって、不破さんのトイ相手みたいに楽しそうに嬉しそうに笑ってはいなかった。それよりもしょうがないなって苦笑して元カノのトイの頭をぽんと撫でていただけ。
なら、多分、あの元カノさんとは、よりを戻す事にはなってないんじゃ。それなら自分にだって、まだチャンスはありそう、だよね。
掃き終わった箒を片付けてから置かれていた布巾のあるテーブルに戻ると美弥子のトイがいる。
ね?とテーブルの上で遊んでいた自分のトイへ呼びかけて視線を合わせると、頑張ってとでもいうかのように両手でグーを作って見上げてくれた。
美弥子としては、うじうじしてるのは自分の性分じゃないし、いっそハッキリさせてしまいたい。
そうよ、いつまでものらりくらりとかわされてるままじゃ、自分の気持ちの行き場もない。諦めて次の人を探すにしたって、出来ればきっぱりと引導を渡されたい。
……それに、少し、そう、少しだけだけれど、もし、があるならば、と期待する気持ちも心の隅で自分を見上げていた。
美弥子が手のひらをトイへ向けると、トイがぺちんと小さな手のひらを合わせてくる。
可能性が少しでもあるなら。
無いなら無いで、連休はどこか弾丸旅行でも行ってきてこの気持ちをきっぱり捨ててきてしまおう。
小さなトイに貰った元気に背中を押されて、美弥子は決心した。
拭き終わった布巾を持った手でぐっと握りこぶしを作った美弥子は、意を決して口を開く。それでも、どうしてもどこかやましい気持ちが現れてしまったのか、視線は店長の方を向けなかった。
「そういえば店長、こないだ来てたのって、元カノさん、ですよね?ヨリ戻すんですか?」
少し、声が震えたかもしれない。大丈夫大丈夫平常心よと言い聞かせながら何でもない風を装って、掃除終わりましたとついでに声をかける。その片手にはトイを乗せて、胸元にお守りのように抱えながらカウンターへ戻っていった。
「んー?ああ、お疲れさん。こないだの時の、か」
「そうそう、話の流れからそうなのかなーって。あんまり聞いちゃうのも悪いと思ったんですけど、聞こえちゃったから。人のコイバナって気になるじゃないですか」
できるだけ明るくあっけらかんと聞こえるように。そんな、意識してなんていませんよという素振りで。
美弥子としては頑張って平静を装った。
……けれど、悟から見た美弥子は、少し硬く不自然に明るいその声音と笑っていつつも向けられた真剣な眼差しに、ただの雑談ではない何かを感じていた。
「まぁ……そうだね、元カノだよ。確かに戻りたいとは言われたけど……その気は無いから断った」
瀬川という元カノからの申し出には、正直に言えば少し驚いた。当時はうっとおしいと言わんばかりの顔で、早く離れたいと言われてしまったから。トイがいつもいつでもどこにいてもくっついてきて、凄く恥ずかしくてもう嫌だと。そんな酷い言われようでこちらが想いを残した状態で別れたために悟の心には小さくない傷がついた。
まぁ、その傷も、その後の長い時間と、この店と美弥子の存在で癒されたのだろう。
あの時を思い出して、少しだけ感傷に浸りはしたものの、もう一度と言われたその提案は全く心に響かなかった。そのことに、自分でも、想像していたよりずっと平気になっていたんだなと思ったものだ。
だから、今はもう彼女になんの未練も無かったために、決断は早かった。それでも一言断ってすぐに済むような気配がしなかったから部屋へ呼んだし、その提案は正しかった訳だが。
泣かれ、縋られ、温かいミルクを出して話を深く聞けば、それまでいた恋人と別れて傷心だったとのこと。それは俺への気持ちじゃなくて、楽になりたいだけだろうと、実際にはもっと優しい言葉を選びつつも諭して、宥めて。最後にはすっきりした顔でありがとうと言われて去って行った。
それでいい。
それに、こちらも過去のわだかまりが無くなって、共に笑顔で別れられたのは得難い収穫だったから、あの時間を持てて良かったとも思っている。
「そ、うなの?」
「そうなの。ほい、お疲れの一杯」
悟はいつも、仕事終わりの最後の一杯を、美弥子をねぎらうために淹れている。ゆっくり肩の力を抜いてから帰ってほしいと思っているから。
同じように、彼女のトイにも金平糖を一粒。角砂糖を置く小皿に乗せて出せば、いつもぴょんと飛びつくのに、今日は美弥子の手の中で少し迷っているようだった。
少し戸惑った風に見えたトイも、美弥子を一度見上げてから金平糖へ手を伸ばした。うん、喜んでは貰えてるみたいだ。
「……ありがとうございます」
毎日の事だけれど、小さな事でも感謝の言葉を述べる美弥子は、とてもいい子なんだよな、と知らず悟の口元が綻んだ。
わずかな微笑みだけれど、緊張していた美弥子には効き目があったらしく、頬を染めてカウンターの椅子に寄りかかるようにして腰を降ろす。
「それにしても……もったいなかったんじゃないです?店長も、もういい歳なんだから、好きだって言ってくれる人は捕まえておいた方がいいでしょうに」
そうは言いながらも美弥子の胸中は複雑だ。自分だって店長を好きなくせに、元カノの事を持ち出してなんとかして彼の心の向きをさぐろうとしてしまう。なんて嫌な子だろう、と自分でも思いながら。
少しでもこちらを向いてくれたら、なんて嘘っぱちだ。叶う可能性があるなら何をしてでもこっちを見てほしいと、そう、思ってしまう。
悟は美弥子から向けられる淡い期待には気付かぬふりをして、自嘲気味に言い放つ。
金平糖にかじりつく彼女のトイの元へ飛び出していきたそうにしている、胸ポケットの中の自分のトイをおさえながら。
駄目なんだって。悪い、我慢しててくれるか。
「そう、おれはもうかなりオジサンだ。……だから、もういいんだ」
「いいって?」
「一人でいいって事。後は老いていくだけなんだし、俺はこのまま一人でいいよ」
「えー、そんなの寂しすぎでしょう?」
美弥子が訝し気な顔をして聞いてくるのに、できるだけ淡々と答えていく。期待しないでほしい、というように。
この話を続けるなら、この後、きっと、君を傷つける。だから少しでも、美弥子の中に期待が芽生えないように、未練が残らないように、と願いながら。
自分のトイにも、美弥子にも、酷い事をしていると解っている。けれど、どうにも意固地になってしまっている悟は考えを変えようとは思えなかった。
けれど、ごくり、と、意を決したように美弥子が珈琲を飲み干して握りしめたカップをソーサ―に置いた。
まずい。
悟の喉がひゅっと鳴り、咄嗟に上手く声が出てこなかった。
「っそろそろ」
「あ、たしは?店の色々にも慣れてきたし、店長の好みとか考えとか大分わかるようになったから、丁度良さそうじゃないです?」
言わせてしまった。
そろそろ帰るかと、話を終わらせようと慌てて言いさした悟の声なんて聞こえなかったように、美弥子はカップを持つ手元をじっと見つめたまま、言い切ってしまった。
もう、これまでのような曖昧な返事では許されないのだろう。
なかなか返事をしない悟に焦れたように、そっと視線をあげてこちらを見上げた美弥子の眼差しは不安そうに揺れている。金平糖を食べ終えた彼女のトイが、少し震えている彼女の手元に寄り添っていて、悟の中に生まれた罪悪感は否応なしに膨らんでいく。
どうしたって重くなる口を悟はゆっくり開いて、自分の心が求める願いとは反対の言葉を、自分に、そしてトイにも言い聞かせるように口にした。
「……それこそ、駄目だ」
「どう、して……?」
そうだよな、何の理由もなしに駄目です、はいそうですかと引き下がれる訳がない。
はぁ、と重い溜息を吐いて、これまで考えていた理由を述べていく。
「……あのねぇ。美弥子ちゃん、俺と君、いくつ離れてると思う?寿命どおりなら、俺は先にこの世からいなくなるし、そうしたら君がずーっと残されちゃうでしょ。残される相手に寂しい思いはさせたくないから、俺は一人でいたほうが良いんだよ」
できるだけ軽く、重い気持ちを乗せないように。なんでもない事のように。俺にとって、彼女の居る居ないがそこまで重大な事ではないと聞こえるように。
「それに稼ぎだって悪いからさ。どうせ同じおっさんを選ぶなら不破みたいな稼いでるヤツの方がいい暮らしができるんじゃない?どう、あいつ。こないだ美弥子ちゃんのこと可愛くていいなって言ってたよ」
気づけば、悟は軽口ついでに、先日また来て美弥子が可愛いと言っていた不破を勧めていた。そう、あいつの方が、俺よりずっと優良物件じゃないか、と思いながら。
けれど、それはどうやら美弥子の中の何かを踏み抜いたらしい。
「……なにそれ」
地を這うような低い声だった。こんな声も出るのかと思う程。いつもは接客ということもあって、少し高めの声で話しているのかもしれない。
そんな場違いな事を漠然と思う程には、悟も気が動転しているのかもしれなかった。
「どうして、ここで不破さんが出てくるんです?私は店長に聞いたのに」
なんと言ったものかと返事に困って視線を彷徨わせていると、ぎゅう、と美弥子の手にしがみつき、こころなしかこちらを睨みつけるように見上げる彼女のトイと目が合った。
そんな、悟がどうにかして美弥子に自分を諦めさせ、逃げたいという思いのままに逃避してしている間にも、美弥子は思いの丈を零していく。
「もう、とっくにわかってるんでしょう?私が……店長を、好きだって」
「……まぁ、ね」
「店長は、ずっと先の事や、駄目な事ばっかり言ってる。今は?今私が寂しいと思ってるのはどうしてくれるんですか。店長は……悟さんは寂しくないんですか?」
赤い顔と潤む目元で、トイと同じように悟を睨みつけながら言う美弥子は、とても勇ましくて……そして愛しかった。
「歳とったらって、じゃあ事故にでもあったら?病気になったら?何十年も先の未来がこない事だってあるのに!今のうちに少しでも楽しくて幸せな時間を過ごせるなら、それを手に取ろうとは思わないの?!」
ごもっとも、という呟きは悟の口の中だけで解けて消えた。
「あたしは!悟さんと居たいの!他の、あなたよりもっと年下の人とか、沢山稼いでる人がいいとかそんな条件で選びたい訳じゃない!……っ、どうしてそれがわからないのよ!」
ガタン!と勢いよく立ち上がった美弥子は、とうとう叫ぶように悟に言い放った。
立ち上がった勢いのままにカウンターに手をついたその時だった。
ガチャンという耳障りな音がして、美弥子の手がひっかけたソーサ―が、上に乗っていたカップと共に弾け飛んでしまった。
為す術無く宙を舞う様を、どこかスローモーションのように感じながら、悟は見ていく。
いつの間にか胸ポケットから飛び出していた悟のトイが追いかけるのも視界の端に入ってきた。けれどもちろん、落ちていく重いカップ達を止められるはずもなく。
そのまま、止める間もなく派手な音をたてて床へ着地したカップとソーサ―は、見事に割れてしまい、破片を周囲に飛び散らせてしまった。
「きゃあっ……!」
落ちた音に驚き声をあげた美弥子はというと、無残に割れたカップを見た後、わかりやすくどうしよう、とその顔に書いてある。けれど、すぐにわなわなと震え出した口元が、下がった目尻が、可哀想なほどに怯えた表情になった。
「あの、わ、私……ごめ、ごめんなさい……っ!」
「え、……あ、ちょ、待てって!」
気が動転したのだろう。美弥子は謝罪の言葉一つだけを残して、バン!と勢いよく扉を開け、悟の静止も聞かずに飛び出して行ってしまった。
呆然として動けないでいた悟とトイをその場に残したまま。
赤くなった目元から、きらりと光るしずくを零しながら。
小説を書く力になります、ありがとうございます!トイ達を気に入ってくださると嬉しいです✨