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魯迅――時空を超えるセンチメンタリズム

エー。今日は仕事場でねえ、「ビズタイム 冴えるBLACK」のボトルを持ってニコニコしてたんですよ。仕事しないための最良の方法、それはニコニコしていること

ポッカサッポロの缶コーヒーです

したら「冴えるBLACK」の文言を見た上長氏が、「いいねえ。ディンゴくんもどんどん冴えてくれよ!」と言ったんですが、生憎そのボトルはもう空だったんですね。なので正直に「すみません、完全に冴えきった状態が現状です」と応じたんですけども、まあ、渋い顔をされましたよね。そんなことはどうでもいい!(お前が書いたんだろ

魯迅の話をしたいの

魯迅(1881~1936)

故郷』(1921)、『酒楼にて』(1924)、『藤野先生』(1926)。つくづく魯迅の作品ってサヨナラばっかですよね。むかし「サヨナラだけが人生だ」と書いたのは井伏鱒二(1893~1998)でしたが…いや、あの文章の大元は漢文か。
唐代の詩人・于武陵(う・ぶりょう)の「勧酒」、原文はまず以下の通り。

勧君金屈巵
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離

これを書き下し文に直したものが、以下の通り。

君に勧む 金屈卮(きんくつし)
満酌 辞するを須いず
花 発けば 風雨多し
人生 別離足る

金屈卮(きんくつし)っていうのは、豪華なサカズキのことだって。で、これを井伏鱒二が「厄除け詩集」('52)の中で日本語に翻案したものがこれ。

コノサカズキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

…やるじゃない。やるじゃないの、鱒二。本当に、まったくサヨナラだけが人生だよ。と、ディンゴぐらいの者でも全力で共感してしまうのですが、えーとなんの話だっけ。魯迅の話をしようとしてたのに、ぜんぜんちがうところまで来てしまった。

★★★

閑話休題。多くの方にとって魯迅といえば、まあ多くの教科書でも採用されている『故郷』なんじゃないかと思いますが、ディンゴは『酒楼にて』が好きですね。どちらも共通するのは中国のインテリ階層が「五・四運動」(1919)に感じた挫折に由来する寂寥。魯迅たちが実生活で抱えた挫折の念が、『故郷』においては失われた少年時代の人間関係に、『酒楼にて』では失われた青年時代の情熱に託されて描写されていると。

ひっさしぶりの土地に帰ってきた主人公が、懐かしい友が社会に揉まれ歪められ、様変わりした姿を目にして気落ちする……という大まかな構成において近しい部分のある両作。しかし現実的な身分の格差が主人公と親友を隔ててしまう『故郷』よりも、別に身分差とかはないんだけど、生活に追われ理想との決別した友とたまたま再会し、俺たちもずいぶん遠くまで来ちまったな…と自覚させられる『酒楼にて』のほうが、読後の身につまされ度が高くてナイスです。

また土台、『酒楼にて』はその名の通り酒楼が舞台なところと、冬のお話なところと(※ディンゴは冬が好きです)、酒やツマミの描写が出てくるところもポイント高い。

 “一斤绍酒。——菜?十个油豆腐,辣酱要多!”

『酒楼にて』(1924)

主人公が給仕に言いつけたこちらのオーダーは、翻訳すると「紹興酒を一斤。つまみ? そうだな、揚げ豆腐を十個。辛子味噌はたっぷり」…といった意味合いになるそう。「揚げ豆腐を十個」という量に引っかかりを覚えて検索をかけると、どうも向こうの揚げ豆腐は我々が想像するものより小さいらしい。また、揚げ豆腐といえば向こうでは代表的な家庭料理のひとつで、家庭それぞれ、お母さんごとの個性的なレシピがあるものなんだとか。ヘ~

中国のページで拾った『酒楼にて』の挿絵

『酒楼にて』ではその後、友人と合流した主人公がいろいろと追加オーダー。卓上には「茴香豆、冻肉、油豆腐、青鱼干」が並んだ、と書かれています。「光文社古典新訳文庫」版の解説によれば、これらは「ういきょう豆」(ソラマメとういきょうを煮込んだ料理)、「肉の煮こごり」、揚げ豆腐、「青魚の干物」のことであるといいます。

油豆腐、こんなんでしょうかね。知りませんよ(逆ギレ

★★★

あと『藤野先生』はなんか、ディンゴ的には涙なくしては読めない恩師の思い出。東北大の留学生時代の魯迅を気にかけ、細やかに指導してくれた藤野厳九郎先生(※ちょっと変人ではある)の思い出を書いた私小説ですが、むすびでは魯迅本人が医学の道からオリて以来、なんの連絡を入れてこなかった不明を恥じてみせるわけで、やはりサヨナラが主題のお話と言えるのではないか。

…横道にそれますが、『藤野先生』で魯迅は日本人の同級生にいじめられたこととかもキッチリ書いてるんですけど、それはそれとして日本でも多くの読者を獲得しているのがいいですよね。最近のヘンに歪んだ、誤った日本ageがキライなので、フラットな感じがする描写があるとそれだけで安心してしまうという。…そういえば後年、太宰治は日本文学報国会が「大東亜共同宣言」五大原則をテーマとする国策小説の企画を募集した際、藤野との師弟関係を通じ胎動期の魯迅を捉えた『惜別』('45)を書きましたが、これもそういう出自の割には、トクベツ国策小説のニオイはしませんでしたな。まあ魯迅を題にとるぐらいですから、その時点で向こうに親しみがあって、フラットな見方ができてたのかもしれませんね。(※ディンゴは太宰に詳しくありません。すみません

★★★

今回は特にとめどなく書いてしまってワケがわかりませんが、まあ、ディンゴは折に触れ、魯迅のいくつかの作品に帰っているということですよ。まさに故郷

希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、歩く人が多くなると初めて道が出来る。

魯迅(訳:井上紅梅)『故郷』より

この翻訳ではいささか難しいですな。新訳も併せてどうぞ。

僕は考えた――希望とは本来あるとも言えないし、ないとも言えない。これはちょうど地上の道のようなもの、実は地上に本来道はないが、歩く人が多くなると、道ができるのだ。

魯迅(訳:藤井省三)『故郷』より

何かとしんどい渡世ですが、とにかく歩き続けることだ。それが道になるまで。

【追記】

…アップから30分足らずで追記してしまって恐縮ですが、ディンゴの1コ上の先輩・ラビットさんのご解説によれば、「油豆腐」というのは日本でもおなじみの珍味「臭豆腐」を油で揚げたものだそう。

ブログ「吃尽天下」さんがこのように紹介されていたそうです。

いや、まったく勉強に成増、和光市、志木(東武東上線

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