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ストロングスタイルの魯迅イズムとはなにか

エー。ディンゴはこのまえ魯迅について書きました。書いたと言っても、魯迅に関する有用な情報をまとめたとかではなく、単に魯迅きっかけに連想した四方山をダラ書きしただけ。まさに駄文。

先般『酒楼にて』を再読した直接のきっかけは代田智明先生(東京大)の退職に寄せた石井剛先生(同校)の文章に触れたことだったんですが、そのことについて上掲の記事中にメモるのを失念しておりました。

石井剛「もう一つの『酒楼にて』 : 代田智明先生を送る」('17)

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/39072

名文です。代田先生は自身を「暇人」と捉え、またその特権に自覚的だったように思えたという。「暇人」とは『酒楼にて』で主人公が自嘲した際の文言なんですが、石井先生は「暇人」でいるということは「何者でもないことによって無限の他者に開かれた批評的主体性を獲得すること」であり、言ってみればそれはストロングスタイルの魯迅イズムだ、とおまとめになる。

『酒楼にて』という作品は、時代に敗れた者たちの一瞬のスケッチ。石井先生は、同作が描いた行き詰まりの風景を、以下のようにかみ砕いておられます。

きっと、彼らもかつてはこの酒楼で喧々囂々の議論を闘わせたのだろう。その面影はいまない。「だめになった」 のは彼らだけではない。酒楼に行き交う人びと、そしてそれらを取り巻く社会がみなそうなのだ。酒楼の外では、湿気を含んだ重たい雪が降りしきっている。「家屋も街の通りも、真っ白で定まりのない深い雪の編み目の中に織り込まれていた」。この世界は粘着質の重たい因襲と伝統に覆われ、揺らめいている。

石井剛「もう一つの『酒楼にて』 : 代田智明先生を送る」('17)

石井先生は、しかしそれは絶望の景色ではない…と続けます。

だが、とわたしは思う。彼らにもきっと希望はあったのではないだろうか。「わたし」 は2階の窓から 「廃園」をのぞく。そこには湿って重たい雪をかぶった梅と椿がそれでも花を咲かせている。「わたし」 はそのすがたに「暇人」を蔑む憤りと傲慢を見いだす。酒楼に集う人びとはつねに変わり、それを取りまく時代も移ろいゆく。しかしそれでも、廃園の花はやはりそこに立ち続け、滑り落ちた雪の下からすっくと枝を伸ばしては、酒楼の過客たちを叱咤するのだ。
友人が届けようとしたビロードの髪飾りはすでに間に合わなかった。しかし、間に合わなかったことによってこそ、すべてが「抱擁」されるのだとすれば、そこに「あるともないとも言えない」希望を見いだすことも不可能ではなかろう。いや、それこそが魯迅にとっての「地上の道」 だったのではないか

石井剛「もう一つの『酒楼にて』 : 代田智明先生を送る」('17)

地上の道」というのは、『故郷』のむすびですね。人々が歩き続ける限り、きっとそこには道ができる…という文脈で使われた文言。

代田先生の退職を祝うべき小文でとりとめのないことを書いた。それは「注文」に追われてばかりで我を忘れている酒楼のボーイが、ふと窓辺の 「暇人」に気づいて抱いた妄想のようでもある。だが、それでもボーイの明日は、きっと昨日までとは異なっているのである。

感恩。

石井剛「もう一つの『酒楼にて』 : 代田智明先生を送る」('17)

…ちょっとカッコよすぎるよ! 石井先生、きっと女子大生に大モテまちがいな~し。誰よりも魯迅を愛した代田先生への「惜別」の言葉を、魯迅の世界の内側から送ってみせた石井先生。あまりといえばあまりに洒脱すぎ、ディンゴもここで思わず失禁。

思ったよりも長くなりました。前回の記事と別にしてよかったのかもしれません。ともあれ、

感恩!!!!



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