見出し画像

字数制限の意味(自己ツッコミ開始)

昨晩こんな記事を書いた。

 書くことでスッキリしたのち、「本当にそうか?」とうなされて起きた。
 ある程度文字数が書けるのはいいとしても、締め切りを設定しないと終われない。というのが昨日の結論だった。

 自分の「書く」という行いは、一昨年の「短期集中自主練」で得た「できるかもしれない」という思い込みがあったとしても、その後同じように継続してはこなかった。
 課題設定が適切でなかったから一昨年のクオリティとなったのではなく、その後継続してこなかったから一昨年からレベルアップしていないというのがより正確だろう。

 ぐねぐねとこねくり回したあれは、実際はできない自分への言い訳でしかなかった。
 そうは言っても、今は言葉にならないが、あれには何かしらの必要があったから書いたのだと思うし、うっかり投稿してしまった。公開をやめずに恥の上塗りをしているのは、未来には何か収穫できるという勘が働いているからかも知れない。知らんけど。

 もっと弄り倒して到達せねばならないのは「字数制限」の壁の向こう側である。昨日の記事ではそんなのやらなくてもいいじゃん、という気持ちが垣間見えるどころか大きな顔をして座っている。しかし、より良い考え方がある、と思えば改められるのが私のいいところである、と言い張ることにする。

 字数制限は、読み手の「胃袋の大きさや食事にかけられる時間」のことであったというのが今日の結論だ。

 いつでも人はフルコース料理や食べ放題(90分制)を楽しみたいわけではない。30分後には約束があるから牛丼屋に入ったり、手持ちが500円だからコンビニのイートインスペースで済ませたりする。尋ねた先でお茶請けに出たびっくり豪華なお菓子を頂いたりもするし、あるいは食事制限をしている場合だってある。出された相手を慮って頑張って食べる場合もあれば、丁寧に断って自分にあった量だけいただく場合もある。
 それぞれケースバイケースではあるが、「このフォーマットでお願い」という相手に対して「たくさんできたからそう言わずに食べて」と言い張るのは手前勝手すぎるのではないか昨日の自分よ。
 文化人類学のフィールドワーカーならばありがたく全部いただくのがお作法である。しかし、相手へ受け取りを強要するのは何かアンフェアなものを感じる。
 需要と供給のバランスが崩れそうなシチュエーションではお互いのコミュニケーションスキルの見せ所ではあるかも知れないが、無理やり大量に食べさせすぎて今度から遊びに来てもらえなくなったら寂しいので、そういうやり方は改めていこうと思った。

 目指すのは、あまりに美味しくて一口でも満足だがうっかり大量に食べても胃もたれしない文章を書くこと、にしようと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?