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辛い目にあっても それでもいい事を探す

 人とのやり取りの中で辛い目にあう。
 それでもその経験に対していいこと探しをするならば「同じことを人にしちゃダメだな」という思いが蓄積されることだと思う。

 相手のその行動を招いたのは自分の責任であるかのように感じることもある。
 しかし、最終的なGoサインを出したのは、その行動の主体である。
 「そうさせたのはお前だ」と、同時に言われることもある。
 しかし相手にはそれ以外に無数の選択肢がある。


 物を投げつけられた。

 41年生きているが、10回はないかな、と思う。
 最初に投げつけられた記憶は大人になってからなので、まあ20年のうちに両手の指で足りるくらい。だと思う。
 慣れていいものでもないだろうが、だからショックを引きずってしまう。

 ぐつぐつとした感情をそのままにしては内圧でダメになる。
 こうやって文を1本書いて、昇華できるものならそうしたい。うまいことガス抜きがしたいのだ。


 人に物を投げつけてもOKな場合はどんな時だろうかと考える。
 節分の豆まきだの、スペインのトマト祭りだの、お祭りまで持っていくと結構ありそうだが、できるだけ日常に近いところで考えると思い浮かばない。
 自分の人生で普段あったことは、日常生活ではなくて遊びの中にはなるけれど、子供の頃に遊んだドッヂボール?

 では、なぜドッヂボールは人にボールを当ててもいいのか。
 ボールを人に当てることでゲームが進行する。多分そういうルールで成り立っているからだ。
 参加したい人はルールに従う必要がある。ルールに従うならば、その間は人にボールを当ててもいい、ということになるのだろう。それで何か問題がある場合はそのルールの中に「こういうふうに当てちゃダメ」も含まれているはずである。
 調べると頭や顔に当たった場合はセーフとなるらしい。頭にボールが当たるリスクとのバランス取りだろうか。確かに存分に頭を狙ってOKのゲームには参加したくない。

 何かをぶつける祭りは、期間限定、条件限定だから、普段タブーとなっているようなこともみんな楽しく行える、という側面がある、のだろうか…
 私も「ぶつける」行動をクローズアップして脳内サーチしたが、「ぶつける」というところが最重要コンテクストでもないのかもしれない。むしろ普段よしとされていない「ぶつける」行動を許されるのがその特別な環境、を人々が共有している、のがお祭り?という感じがする。


 人とやり取りするときに、物を投げつけてはいけない。
 どこかに書かれてもいないし教わってもいない。けれど自分の経験からそのルールはあると感じている。
 それを破られたから、辛いと感じたのだろうか。




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