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続々・朝顔の種

 長男の学校から持って帰ってきた朝顔の鉢は、ついに三日連続で花をつけた。
 朝顔の花をより咲かせるには、適宜剪定する必要があるようだった。私の記憶の中の朝顔にはそんな世話をした覚えがない。家族の誰かが手入れをしていてくれたのか。小学校一年生、花が咲けば気になるが葉や蔓が多少減っていても気がつかないだろう。絵日記を何回分か書くタスクが終われば朝顔の存在も忘れた。
 しかし知ってしまったからには園芸バサミを持たざるを得ない自分の性質で、まめに弱った葉や伸びすぎた蔓を切っている。これが楽しい。育てることは関わることでもあるようだ。一方的に水や栄養剤を与えるだけでなく、様子を見て介入する。その結果相手の変化が見て取れると嬉しいものだ。毎日水やりだけのルーティンでは飽きて忘れてしまう。だがこの因果関係も、ただ自分の勘違いの可能性は捨てきれない。

 うちで育てていた方の朝顔の鉢から、今頃になって双葉が生えてきた。植え替えの時にもう一度チャンスがあるかもしれないと探して見つからなかった、あの時の1/5の種だろう。

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 次男はなかなか新しいことに挑戦しないタイプだと思っていた。すぐに飛び込んでいく兄を見て、あえて違う戦略を選んでいるようにも思えた。
 そんな次男は、この春から小学校に上がった長男と比較されない環境に身を置いている。独自の友人関係もできてきた。これまで人見知りなのかと思っていたが、ちゃんと人付き合いができる人なのだなあと思うようになった。最年少としていつも守られる、お世話される存在としてのメンタリティから、「僕」としての主張も立派になってきた。これを自立心が育ってきたというのだろうか。

 ある日、これまで絶対に行かない!と言って憚らなかった、長男の通っている習い事にふらっと体験参加してきた。
 これが啐啄の機かと静かに心が震えた。無理やり通わせずに、待った甲斐があったと密かに心の中でガッツポーズをとった。
 しかし、これも私の見ている幻である。新しいことにチャレンジした次男は現実に存在する。が、過去あったことを線でつないで星座にしたのは私である。

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 教材としての朝顔は、期日までに育ち、花をつけ、種まで収穫できるあたりが期待されることだろうか。
 夏休みになって今更出てきた双葉は、なかったもの扱いかもしれない。しかし、隣の鉢がぽつぽつ咲いているのをみて、自分も一花咲かせてやろうと出てきたのか、と思うとより目をかけてあげたくなる。これも自分の妄想に過ぎないのだが。

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 人間は、この広い宇宙で生きているのではなく、自分一人の妄想の世界の中を生きている。広い大きな世界でなくて、閉じられているが少し向こうが透けてみえる、ぶどうの粒の中にひとりで住みながら、同じ房の隣の粒の様子を垣間見ることができるくらいなのかもしれない。それでも誰かと一緒にいると思えるのが幸せなのか。

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