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ぺんぎん太郎(かるた)さん

プロフィール:20代、男、未婚、音楽教師、北海道、難発&連発、難発が出てしまうと呼吸も出来ない、幼少期に発症、手帳はなし、ピアノ歴20年目

「”キツ”すぎる私の人生」 
私が吃音を自覚し始めたのは小学校の頃。しかし、当時は「なんか吃るなぁ」程度であり、「吃音」という言葉には出会っていなかった。中3の頃、知り合いの言語聴覚士と出会い、初めて自分が吃音だと知った。それと同時に「吃音は障害者」であることを受け入れることができず、苦悩する日々が続いた。以下、私の人生の中での苦労した経験を綴っていく。涙混じりで記述したこの文書を通して、少しでも多くの人に吃音の辛さ、過酷さ、むなしさなどが伝わって欲しい。それと同時に、障害者への配慮のあり方について、考えるきっかけとなっていただければ幸いだ。


①アルバイトでの苦痛
大学時代、某コーヒーショップで働いていた。昔から喫茶店やカフェで働くのに憧れを抱いていた。何度も面接の練習をし、吃らずに面接をクリアし、見事採用。そのまま働いたが、「丁寧な言葉使いで、正しい言葉を選んで、スムーズに説明しなければならない」マニュアルを前にしたとき、私は絶望した。
少しでも吃れば説教。言いやすい言葉を挟んだり、言いやすい言葉に変えても指導が入る。
自分がスムーズな接客をできず、お客様からクレームが来たときも、真っ先に怒られたのは私。2年近く働いていたが、「いつまでたってもスムーズに話せない、要領が悪い大学生」と認識されていた。自分なりに家に帰ってから接客の練習をしても、全く良くならない。でも憧れのコーヒーショップで働けていることに喜びを感じながら、毎日の家での練習を欠かせなかった。
しかし、そんな練習も虚しく、吃るばかりの毎日に少し疲れてきたとき、店長に吃音をカミングアウトした。
「実は吃音という障害をもっているんです」。そう伝えると、「大変だったね」と励ましてくれ、その日から一切説教がなくなった。その時、私は理解してくれた嬉しさを上回る違和感を覚えてしまい、すぐにその後バイトを辞めた。その違和感は「障害があると言わなければ吃音の理解はされないのだ」と悟ってしまったからだ。逆に”障害者には優しく”する世の中、”障害者には優しくしない”世の中になんとも言えない気持ちを覚えた。私は、障害者でなければ生きていくことはできないのだと悟り、その後は家で泣いた。

②毎日の練習が地獄
ここまでの対策をしているのは、ごく少数だと思うが、私は毎日ある練習をしている。それは、「おはよう」から始まり、「お疲れ様でした」で終わる日常の全ての会話を練習することだ。中学1年生から、あらゆる会話を想定し、1人でぶつぶつと練習してきた。時には親にまで「何1人でいってんの」と言われることもあったが、この練習がなければ私はほとんど話せない。逆に言えば、毎日練習さえしていれば吃ることへの不安は大きく減る。しかし、全ての会話を練習していても想定しきれない場合がある。しかし、職業柄、突然起きる会話は多々ある。その時は仕方が無い。フリーズして喉がブロックして呼吸ができなくなるのを我慢し続けるしかない。最近気づいたのだが、そのような状態になると周りは、「何も準備してこなくて何も考えてこなかったんだ」と見取り、私に説教する。そのような説教からか、私はストレスから喋ることはほぼ出来なくなった時期があった。こんなに毎日頑張っているのに、誰にも伝わらず、苦労を踏みにじるような説教を受ける。こんな想いをするなら・・・。

③「死んだ方がマシだ」
私は社会の中の障害者への配慮のあり方に疑問を抱いています。そもそも、障害者への偏見や差別等は未だ存在するのに障害がなければ配慮がされない。障害者が悪い、嫌だ、というわけではないが、自分は未だ、吃音を障害だと受け入れることは出来ていない。というより、「障害である」ことがそんなに重要なことなのだろうか。吃りやすい人、緊張するとフリーズする人、コミュニケーションが苦手な人、書く時に手が震えてしまう人、チックを持っている人、これらの症状を持っている人はたくさんいるのに、なぜ「障害」が付かなければ周りは理解せず、配慮をしないのか。甚だ疑問である。完全に健全な人と、明らかな障害を持っている人。それぞれをホワイト、ブラックと呼ぶと仮定したとき、その間のグレーな人たちへの配慮はどうなるのか。必ず白黒つけなければいけないのか。グレーのままではダメなのか。

今までの経験の中で、「なんでこれは話せるのにこれは話せないの?」と何度も言われたことがある。その度に上手に説明出来ず、その説明すらも喋れず、フリーズして怒られる。でもこれが例えば聾唖者ならどうでしょうか。きっと「聾唖なら仕方ない、話せないのが当たり前だから」と誰もが思うでしょう。聾唖者と吃音の境目ってなんでしょうか。世の中の線引きって何なのでしょうか。私はとっても生きにくいです。
吃る私をみて、「あ、この人もしかしたら吃音なのかな?」と思う人は何人いるでしょうか。
黙る私をみて、「あ、この人もしかしたら吃音なのかな?」と思う人は何人いるでしょうか。
唇が痙攣する私を見て、「あ、この人もしかしたら吃音なのかな?」と思う人は何人いるでしょうか。
その人数は吃音への理解をしている人の数に比例していることでしょう。

そんな中でも私の彼女はこの吃音をとても理解してくれています。感謝仕切れないです。その感謝を口で伝えることも出来ません。今は好きな仕事に就くことが出来ていますが、吃音が原因で職を変えることもあり得ます。そんな私が世の中に願うことは1つだけです。「ありのままの自分を理解してくれる環境が欲しい」だけです。吃るたびに謝って、黙るたびに怒られる毎日はハッキリいって人権がなさ過ぎます。吃ることも黙ることも、呼吸ができなくなることも唇が痙攣することも不可抗力であり、いつも泣きたい気持ちに駆られます。
しかし、そんな気持ちと向き合いながら、私はこれからも生き続けなければなりません。毎日の練習も続けなければなりません。皆の前で恥ずかしい思いをし続けなければなりません。周りの人からも馬鹿にされ続けなければなりません。吃音を背負った今、これらがつきまとうことには慣れてしまいました。ですが、1つ欲を言うならば、自分のありのままを受け入れてくれる環境の中で、今まで吃音のせいで諦めてきたことを思う存分やりたいです。それが叶うはずのない私の夢です。

*この文章内にホワイト・グレー・ブラックのように色で区別をつけている箇所がありますが、決して差別的な意味は含んでおりません。

Twitter kituon_ganbare

mail greeenfistinreiji_sunatti@yahoo.co.jp






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