俳句鑑賞②『良い"詠み"は良い"読み"から』12月号・下巻
俳句鑑賞『良い"詠み"は良い"読み"から』は、俳句系千年狐Vtuberきつネつきが、俳句ポスト・俳句生活の優秀句を鑑賞して、俳句のさらなる魅力発掘を試みる連載である。
皆様に俳句の魅力を知ってもらうために、そして僕自身の作句力を鍛えるために、上巻・下巻の月2回更新を目標にしたい。
【更新スケジュール】予定
・上巻:毎月05日 俳句ポスト 特選の鑑賞
・下巻:毎月20日 俳句生活 天地の鑑賞
はじめに 〜なぜ俳句鑑賞が重要か?〜
※この「はじめに」は前号の内容と全く同じである。
この号から読み始めた方のために、割愛せず残してあるので、すでに前号で読んだという方は、遠慮なく飛ばすことをお勧めする。
さて、俳句鑑賞とはつまり、人様の俳句をあれやこれやと分析して、自分なりの解釈を述べるという、何ともお節介で自己満足的な行為である。それなのにこのきつネつきという奴は、それを「自身の作句力を鍛えるため」などとのたまうではないか。
何故、人様の俳句を分析し解釈することが、自身の作句力になると考えるのか?これは俳句に馴染みのない人、俳句を始めたばかりの人にはピンと来ないかもしれないが、
・俳句を詠む力 = 作句力
・俳句を読む力 = 鑑賞力
は左右の両輪と言われる。どちらかの車輪が得意な(=大きい)だけでは、または不得意な(=小さい)ままでは、その場でグルグル回って前には進めない(=上達しない)。この二つの力を総合して「俳筋力(はいきんりょく)」と呼び、両輪が等しく得意になるように、前に進むことが出来るように、俳人たちは鍛錬の日々を送っているわけだ。まあ、この両輪の表現も、俳筋力という呼び名も、どちらもプレバトでおなじみ、夏井いつき先生(俳句集団いつき組組長、以下「組長」)の受け売りだが。
もっと言うと僕は、作句力は鑑賞力から生み出されると思っている。俳句初心者でたまに見かけるのが、「自分で俳句を詠んではいる」が「他人の俳句を読んではいない」という人たちだ。そしてこれは別の創作界隈で見かけた話だが、本当に本当に少数、「自分は自分のやり方で創作するから、他人の作品を知る必要はない。」「他人の影響を受けたくないから知らなくていい。」なんて人もいる。実に勿体ない!俳句界隈でそんな人はいないと信じたいが、もし同じ考えを持つ人がいるとしたら、即刻改めて頂きたい。自分の世界だけで作られた俳句は、いつまでも自分の限界を超えることはない。独り善がりの表現になり、他者からの感動は得られず、それ以上の言葉の化学変化は起こらない。もちろん、誰にも見せず、ひっそりと自分の中だけで楽しむつもりならば、それも悪くないのかもしれないが。
そもそも、表現活動・創作活動を行う上で、誰からも何からも影響を受けずに作品を生み出す、なんてことは不可能である。人は必ず、それまで育ってきた環境で受けたあらゆるものからの影響によって、自らを表現して生きているのだから、そんなズレた考えで時間を無駄にしてしまう前に、俳人たちの遺した名句に、句友たちの秀句に、一句でも多く触れて、さらに刺激を、影響を、受けまくってほしいのだ。句柄なんて真似出来るものではない。どう頑張ったって、その人の味や癖が出てしまう。であるならば、率先して様々な句を読んで、その感動を言語化する能力を身につけ、その発想や語彙を、作句のヒントとしたほうがよい。まさにこの「他人の俳句を読んで得た感動を、言語化する能力」こそが「鑑賞力」であり、僕が「作句力は鑑賞力から生み出される」と考える所以なのである。
まずは歳時記で季語を調べたついでに、例句として載っている俳人たちの句を味わうところから。慣れてきたら、どんどん自分から句を調べて、鑑賞する習慣をつけよう。SNSを通じて様々な句と出逢える現代。句友たちの句からも、大いに学ぶものがあるはずだ。
……と、語りたいことを語り尽くそうとすれば、延々と導入が長くなるのでここまでにしよう。
この俳句鑑賞の連載では、
『良い詠みは、良い読みから』
これをキャッチコピーに俳句鑑賞を進めていく。
皆様の俳筋力向上の、一助になれば幸いと思う次第である。
俳句鑑賞 俳句生活 天・地
2024年10月 兼題「秋の暮」
今回鑑賞する句は、俳句生活〜よ句もわる句も〜の2024年10月の兼題「秋の暮」にて天に選ばれた一句と、地に選ばれた五句である。
鑑賞の前に、ここでまず兼題である季語「秋の暮」について理解を深めておきたい。下に二冊の歳時記より引用した季語の説明があるので見てみよう。
季語「秋の暮」。三秋(秋全体)の季語で、秋の夕暮れという意味で使われる季語である。物寂しい秋という季節の夕暮れは、その思いを一層強くさせる。
注意すべきは上記の二冊目の「秋の終りのことではない」という表記だ。この季語の「暮」はあくまでも夕暮れという「一日の終わり」のことであり、季節自体の終わりを指しているのではない。続きに記載があるように、その場合は「暮の秋」を使うのが、現代では一般的なのである。ただし、その両方を響き合わせた使い方がされるため、それが出来るか否かは、この季語の本意(ほい=季語の基本情報)を十分に理解しているかどうかにかかっているわけだ。12月・上巻でも、こうした季語の基本情報(=本意:ほい)を理解することの重要性は書いたので、改めて書くことは控えようと思う。
ここで触れておきたいのは、今回の天・地の句は全て「取り合わせ」の句であるということだ。「取り合わせ」とは「二物衝突(にぶつしょうとつ)」とも呼ばれる構造で、俳句においては最もポピュラーな作り方である。二物とは「季語」と「その他のフレーズ」のこと。この二つを一句の中でぶつけ合うことで、「言葉と言葉の化学変化を起こして詩を生み出す」という作り方が一般的かつ、最も易しいのである。俳句に馴染みのない方や俳句初心者の方によくあるのが、「俳句は五七五が一つの文になっている」という勘違いだ。もちろん、一つの文で構成されていることもあるが、ただ単に普通の文章を五七五にちぎっただけでは、「散文的である(韻文・詩歌の文になっていない)」として俳句の世界では嫌われている。これから俳句を始めるという方は、是非この「取り合わせ」で俳句を作り、日常の中で見つけたフレーズと、その雰囲気によく似た性質を持つ「季語」をぶつけ合う感覚を身に付けてもらいたい。
今回鑑賞していく句は、全てこの「取り合わせ」であり、なおかつ辞書が必要なほど難解な言葉や特殊な固有名詞が一切使われていない。「俳句はかっこいい・難しい言葉を使ったほうがいい」だの、「俳句は上手いことを言えればいい」だの、そんな勘違いは捨て去るべきだと、分かって頂けるだろう。
さて、それではいよいよ本題である俳句鑑賞に移ろう。
地① ◇秋の暮四本足のテレビの灯
ときめき人
地選、まず一句目はこちらの句。夏井組長の選評とともに鑑賞してみよう。
この句は季語「秋の暮」と「四本足のテレビの灯」というフレーズとの取り合わせだ。
まず季語「秋の暮」から句は始まる。前述の通り、秋の夕暮れという意味であり、同時に奥には秋の終わり頃の気配が存在している季語である。そして展開としては至ってシンプルに、ただ「四本足のテレビの灯」が出てきて句は終わるのだ。
「四本足のテレビ」と聞いて、ピンとくる人と、そんなにピンと来ない人とに分かれるとは思うが、古き時代を舞台にしたドラマやアニメなどの影響で、見たこともない・全く想像がつかないという人は少ないのではないかと思う。昔のテレビは四本足が生えていて、何とも可愛らしいフォルムをしていた。白黒テレビの荒々しい画面にカラーが着いたという革命は、当時の子供達には忘れられない感動であった。夏井組長の選評にあるように、この四本足のテレビの存在、そしてその淡い光は、とてもノスタルジック(郷愁的)な光景を読者に想像させる。心の中に誰しもが持つ「懐かしい」という感覚を呼び起こすのである。そのじんわりとした温もりのようなものがまさに、冒頭の季語「秋の暮」の感覚と重なり、響き合い、一句がとても美しく余韻を残していくのだ。
これぞ、「取り合わせ」の妙技であろう。
地② ◇秋の暮鳥みな絞るごとく吼え
千夏乃ありあり
地選二句目はこちらの句。
この句は季語「秋の暮」と「鳥みな絞るごとく吼え」というフレーズとの取り合わせだ。
こちらも季語「秋の暮」から句の光景が始まる。暖かい光、それでいてどこか寂しげな秋という時間の中を、鳥たちは声を上げながら何処へと帰ってゆくのである。その鳴き声を、作者は「絞るごとく吼え」ていると感じたのだ。鳥の鳴き声は、一般的にはとても穏やかで平和的なものとして受け止められることが多い。いや、これは僕個人の感覚かもしれないが、少なくとも巣へ帰っていく鳥たちの声に、あまり悲壮的な印象を抱かないと思うのだが、皆さんはどうだろう?
それは置いておくにしても、作者がこの鳥たちの声に「絞るごとく吼え」ている印象を抱いたのは、紛れもなく季語「秋の暮」の力であろう。このノスタルジックでどこか寂しさのある季語が取り合わされることで、鳥たちの声に悲壮感や焦燥感を生み出したのだと思う。「秋」であるということ、そして夕「暮」れであるということを、余すことなく印象付ける。それが、この句の措辞である、吼えるかのような鳥たちの声なのだ。
地③ ◇まだ墓とならざる石や秋の暮
佐藤志祐
地選三句目はこちらの句。
この句は「まだ墓とならざる石」というフレーズと季語「秋の暮」との取り合わせだ。
「まだ墓とならざる石」という措辞に、僕は組長と同じく墓石店を思い浮かべた。戒名も墓碑銘も彫られていない、磨かれた石。ただ普通の石と違うのは、墓の形をしているということ。「墓」とあれば、読者はどうしてもそこに「死」というものを連想する。そうなると必然的に、寂しさ・冷たさ・暗さがこの句を包んでいく。そして切れ字「や」でカメラのカットが切り替わる。その墓となる予定のつややかな石たちを、「秋の暮」という時間が受け止めるのだ。秋であれば、日が暮れていくにつれてどんどんと気温は下がっていく。日中の暖かさが嘘のように、朝晩は冷え込むのが秋の特徴だ。冬の訪れをわずかに感じ始める、その冷え冷えとした寂しさの中に、この石たちは物言わず佇んでいるのである。その「秋の暮」の印象が、「墓」のもつ印象と重なり、ここでもまた「取り合わせ」の力が発揮されるのだ。
地④ ◇秋の暮煤けた献花ある渋滞
玉家屋
地選四句目はこちらの句。
この句は季語「秋の暮」と「煤けた献花ある渋滞」というフレーズとの取り合わせだ。
季語「秋の暮」という時間の光景から句は始まる。そんな夕暮れの光景の中、次に目に飛び込んでくるのは「煤(すす)けた献花」である。事件か事故か、道の脇に供えられた花やお菓子などを見かけると、胸の内に何とも言えない切ない感覚になったことはないだろうか。ただでさえ献花を見ただけで悲壮感を覚えるのに、その献花が煤けているのである。どれだけの排気ガスを浴びたのだろうか。新たに供えられることのなくなった献花、煤けてしまっても取り替えられることのなくなった献花。この人の死は、すでに人々に忘れられてしまったのであろう。
そして最後に「渋滞」と締めくくられる。上記の光景を、この人物は渋滞の中、つまり車の中から見ているのだ。献花というものを光景として描くと、読者は勝手に歩行者の映像を思い描いてしまうだろう。つまり事故にあった被害者と同じ立場に立って、その死を悼むのだ。だが作者は、これを車窓からの光景とすることで、その展開を裏切る。言ってしまえば車という、事故の加害者としての立場に立たせてくるのである。寂しさだけでなく少しの恐怖が、季語「秋の暮」と取り合わされることで、大きな詩の力を生み出している。
地⑤ ◇壁際に壁を向く椅子秋の暮
空豆魚
地選の最後、五句目はこちらの句。
この句は「壁際に壁を向く椅子」というフレーズと季語「秋の暮」の取り合わせだ。
まず「壁際」が出てくる。これだけでも何だか寂しい感じがしてくるのだが、加えて「壁を向く」と続く。誰だろう?一体誰が寂しく壁際で、壁を向いて佇んでいるのだろう?そう思わせておいて「椅子」が登場するのだ。組長の選評にあるように、掃除のために除けられただけなのかもしれないが、そうだとしても、邪魔者扱いされている椅子への哀愁は十分に感じられる。人を拒絶する、あるいは人に拒絶された孤独な椅子を、季語「秋の暮」の寂寞感をもって包みこんでいくのである。「物」と「場所」で哀愁を生み出し、「秋の暮」という季語がもつ哀愁・寂寞の感をそこにぶつけて、一句に言葉の化学変化の深みを与えたのだ。
天 ◇秋の暮かへればうちにひとがゐる
可笑式
さて、天の句に選ばれたのはこちらの句。
この句は季語「秋の暮」と「かへればうちにひとがゐる」というフレーズとの取り合わせだ。
まず「秋の暮」から句が始まり、そして家に帰ると人がいる、と続く。組長の選評にある通り、字面だけで捉えれば本当にそれだけの、なんてことない一句である。それなのにこの句には、表記も相まって絶妙な余白がある。俳句における「余白」とは、読者に与えられた想像の余地のことだと、僕は考えている。一から十まで全て書き切るのではなく、あえて情報に穴を空けることで、「ひょっとしたら◯◯かもしれない」と、読者は勝手に想像を膨らませて、十七音以上の世界を描き出すのが俳句の醍醐味なのだ。穴が少ないと、想像の幅の狭い俳句になってしまう。穴を空けすぎると、情報不足で何が言いたいのか分からない俳句になってしまう。この句はそういう意味でも、絶妙な穴の空け方だと言えよう。
そして組長の言う「表記も表現の一つ」という言葉。プレバトを観たことがある人は、夏井組長が「ここは漢字のほうが良い」「ここはひらがなのほうが良い」と添削している場面を見たことがあるだろう。このさりげない添削、俳句経験者はどれだけ大切な工程か分かるはずだ。どの言葉をどのように表記するのかで、俳句は読者に与える印象ががらりと変わる。
・人の声
・ひとの声
・ヒトの声
上記三点は読みは同じ「ひとのこえ」だが、漢字で書けば固い印象に、ひらがなで書けば優しい印象に、カタカナで書けば記号のような、あるいは生物学的な動物としてのヒトの印象になる。小さなことだが、これも大切な表現方法なのだ。
季語の力と表現方法によって、十七音以上の世界を描き出すこの句は、俳句の醍醐味を詰め込んだ理想の一句と言えるのではないだろうか。
きつネつき 俳句生活 結果
◆オーボエのリード浸すや秋の暮
きつネつき俳句系Vtuber
おかげさまで僕の句は、「人選」を頂けました。
「音楽の秋」とも言われるように、深みのある楽器の音色は秋の雰囲気にとてもよく似合う。オーボエを登場させたのはそういう意図なのだが、あえてここでは演奏している光景にはしなかった。ご存じの方もいるだろうが、こういった類いの楽器に不可欠なリードは、とても繊細なパーツである。それを水に浸して待つ時間を、季語「秋の暮」とぶつけてみたのだ。「浸す」というと時間が長すぎてリードが駄目になってしまうそうで、あとになって「浸ける」にすればよかったと、後悔したのだが……。
この登場人物がどのような想いでリードを浸しているのか。その余白を楽しんで頂ければ幸いである。
12月号・下巻はここまで!次月もお楽しみに!
最後までお読み頂き、ありがとうございましたm(_ _)m
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