「人の中で生きること、死ぬこと」
先週は澁澤さんのお父様のお話を伺いました。お父様は「人間関係を真ん中に置いて生きてこられた」というお話でした。
実は私もそうなのです。もちろん、全然レベルは違いますが、会いたい人を自分で見つけてお手紙書いたり、お電話したりして、会ってみたいと思った人には全員に会えました。
会いたい人というのは、その時々で違いますが、高校生の時はラジオを聴いて、この人に会いたいと思って公開録音を見に行き、その後アナウンサーの方に直接お会いしました。
東京に来てからは、やりたいことは山のようにあってなかなか決められないのですが、その時目の前にあるものの中からどの道を行こうかと思ったときに、直感で勉強をしたい種類の本を読み、心が動いた本を書いた人に会いたくなり、手紙を書きました。
本には、著者の言いたいことがまとめて書かれていて、十分感動はしていますが、私にとっては、『声』がとても重要で、次に表情、そして一緒に共有する空気がとっても大事で、それが想像した通りかどうかを確認したくなるのです。
澁澤さんはそのことについて、「理屈と、その人の持っている雰囲気がワンセットで初めて伝わるというか関係性ができるということですね」と説明してくださいました。
もちろん、ただの興味だけではそこまではしませんが、連絡を取って会いに行くというときは、その方をシンポジウムなり、何かのお仕事でご一緒させていただく場合なので、一般的に有名なのはこの人だけど、自分の心が動かなければ仕事に熱が入らないので、心を揺さぶってくれる人や、有名でなくても、物事の本質をついている人を探すのが好きでした。
澁澤さんの場合は、先週お父様が人間関係だけを残してくださったというお話をされましたが、お父様のお葬式の時に、財界の方はもちろんのこと、たくさんの有名な方々が来られて、受付で芳名帳にお名前を書いていただくと、どの方も『何かあったら私のところに訪ねてきなさい。私がお父さんの代わりにいろんなこと教えてあげるよ』と言ってくださったそうです。
けれど、当時30歳の澁澤さんと、その時のお父様のご友人の方たちや、お父様と共に生きた関係性をつくってこられた方々とは、人間のレベルが違いました。ものごとを考える深さも、知識の多さも、大人度合いが違いすぎて、その芳名帳は、澁澤さんにとって、いざとなった時のお守りにはなっても、結局それ以上にはならなかったと。
そして、
「結局、自分自身が何かを切り開いていく中で、一緒に汗をかいたり、一緒につらい思いをしたり、うれしい思いをしたり、中には騙された人もいれば、助けてくれた人もいて、そうして残ったのが、その時の自分に合った人間関係だということです」
とおっしゃいました。
私がお会いした方の中で、最も印象的だった方は、在宅ホスピスの女医さんでした。
20年近く前のことですが、当時、ちんじゅの森の監事を務めてくださっていた方を通してこの女医さんに出会いました。がんの告知をされた患者さんが、最後をどう過ごしたいか、病院で最後まで治療してもらうか、それとも痛みをコントロールしてもらいながら、余命を自宅で自由に過ごすか、あるいはホスピスという施設に入るかを選択できることはとても大事だと思いました。まだ、告知さえままならない時代でしたので、自分の死を受け止め、そのあとの暮らし方を選択できる社会になると良いなあと思い、先生と看護師さんについて、患者さんのお宅にもご一緒させていただきました。
在宅ホスピスについては、澁澤さんにもご相談したことがあり、2人の先生に会っていただきました。
澁澤さんは当時のことをこんな風におっしゃいます。
「私にとって印象的だったのは、一人は富士山の見える地域で在宅ケアや、小さい診療所でのターミナルケアをされていて、もう一人は千葉県の房総半島にある海の見える丘の上で小さいホスピスをされていた。そのお二人が、同じように『私たちは自然の中で看取る、心を落ち着けて尊厳をもって看取るということをライフワークにしようと思ってこのホスピスをつくったけれど、ひょっとしたら間違っていたのかもしれない』とおっしゃったことです。
結局人間というのは、群れで森から出てきて、草原に住むようになって、でも一匹では生きられなくて、その群れの中で安全が確保されて、その中で個を見つけていった生き物で、死ぬ時も結局、その辿ってきた道順の逆をいかなければいけない。一人では死ねないので、人間にとって大自然の中で、一人で死ぬというのは苦痛なのだということが分かった。とても立派な方でとても落ち着かれた方が、大海原を見ながら死ぬときに取り乱されるという話でした。都会の中のごちゃごちゃした、こんなところで落ち着いた死に方はできないだろうと思えるホスピスで、結構みなさん穏やかに死んでいかれたりするというお話を、お二人から同時にお聞きしました。そもそも人間の『死ぬ』というのは『生きる』ということと同じで、いかに人との関係の中で、しかも普遍的な関係ではなくて、相手を意識できる距離の中、その人の雰囲気を感じられる関係の中でしか人間というのは幸せを見つけられない、落ち着いて死んで行けない生き物なのではないかということを、私はお二人から教わった気がしました。」
私は、在宅ホスピスの先生にお供して、患者さんのお家にご一緒させていただいたことがとても印象に残っています。皆さん、良いお顔をされているのです。
あるおしゃれなおばあちゃんは、小学生のお孫さんにマニキュア塗ってもらって、また別のおじいさんは、先生にモルヒネのシールを貼ってもらって畑に出て大根を植えるのです。
自分は食べられないかもしれないけど、この大根ができた頃に子供や孫たちに、おじいちゃんが植えた最後の大根だと思い出してもらえたらうれしいと。
この時に思ったのは、私はよく「人の役に立ちたい」といいますが、究極のところ、『伊早子がいてくれてよかった』という言葉が欲しいのかなと思いました。『役に立つ』というとクールでかっこよく聞こえますけど、ものすごく具体的に言うと、いてくれてよかったといってもらえると、存在した意味があったということで、それが私にとっての『幸せ』なのかなと思いました。
その時、澁澤さんが「一昨年お父さんを自宅で看取られたのですよね。その時はどうでしたか?」と、私の父の死について触れられました。
もちろんためらいなく、病院に行って、『治療はもうできないですよ。どうしますか?』といわれたときに、『家で看ます』といって、主治医の先生から自宅に近い在宅医療の先生をご紹介していただき、最後4か月ほど実家で一緒に暮らしました。
父はとても喜んでいました。亡くなる2か月前の日付で家族全員、一人一人に遺書を書いていましたので、その頃にはすでに覚悟はできていたはずですが、時々怖くなるようでした。リビングに介護用ベッドを入れましたが、不安になると、杖をついて夜中に母と私の部屋まで歩いて来ました。「伊早子と音楽会に行ったけど、はぐれてしまった」と言うので、「いさこだよ。もう帰って寝てるよ」というと、「そうかそうか。よかった」と笑って、またベッドに戻ります。
亡くなる2週間くらい前からは一日中眠っていることが多くなり、「〇〇さんに久しぶりに会った」と夢の話をしてくれるのですが、見事に亡くなった方しか出てこなくて、もうあちら側に行き始めているのだと思いました。母にはダメなところをいっぱい助けてもらっていましたが、私の前では最後までカッコイイお父さんでいたくて、良い父親ぶるのです。それは彼のプライドですね。私もこうありたいと思いました。トイレも死ぬ日の朝まで歩いていきました。そのこだわりはすごかったです。
「で、あなたがいてくれて良かったといわれたの?」と澁澤さん。
最後はこんなに急に来るんだという感じで、あまりにも急に来たので、本人が一番驚いていたと思います。目がだんだん白くなるので、「見える?」って聞いたら、「もう見えない」って応えるのです。肉体はどんどん消えていくのですが、でも、意識はあって、声は聞こえているので、お医者さんも「声をかけてあげて」っていいますが、母も姉も泣きそうになっていたので、私が「ママと結婚してよかったね」といったのですが、返事がない。ここは「うん」とか、ママに「ありがとう」でしょ。と思ったのですが、何も言わないので、さらに「良い娘たちでよかったね」と畳み込むと、笑って、逝ってしまいました。
母は「笑ったね」と。たぶん、救われたのだと思います。
ラジオでは、「父の死」を笑い話にしてしまったので、家族に怒られる…とみんなの顔が頭をよぎり、ぎりぎりまでカットするかどうか悩みましたが、澁澤さんはこの話がとてもお好きなので、敢えて、残しました。
父も喜んでいると思います。
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