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SDGs

むかし、おじいさんは山に柴刈に…と始まる昔ばなし。背中に柴を背負って山から下りてくるおじいさんを描いた絵本を、子供の頃よく目にしました。

山には水があり、キノコや木の実、山菜、川には魚などもいて食べるものがあり、植物は薬にもなり、木は家の材にも、燃料にもなる他、繊維は着るものにもなり、蔓は編んで物を運ぶ籠をつくったり、川を渡る橋にもなりました。
木を適量に伐ったり、柴を刈ることで、森は人の手によって整備され、太陽の光が根っこまで入り、健康な明るい森を保ちながら、人間は燃料を手に入れることができ、自然と人との良い関係が長く続いていました。

こうした暮らしがずっと続いてきた時代は、「どうやって生きていくか」ということだけを考えていました。
食料を得なければいけなかったし、燃料や着るものの材料も必要です。
勝手に人間が自然からとってくればよいということではなくて、取りすぎてしまったら自然は壊れてしまう。かといって、自然に全く手を入れなければ、人間が全く踏む込めない自然になってしまうということを、私たちの先祖は良く知っていました。
自然というものは向こう側にあって、それをどう利用するかという発想ではなくて、関わっている全体のサイクルの中で、来年もお米をとるにはどうするか、再来年も山から薪やキノコが採れるか、つまり何年も先まで見通しながら自然と関わっていくということをおのずからやっていて、その中でどうやって効率性をよくしようかと、山をこういう状態にしておくことが、一番両者にとって… というのは、木にとっても動物にとっても人間にとっても、良かったか… ということを延々と考えてきたのが日本の歴史です。

現在の、スイッチ一つで電気が付き、いつでもお湯が沸かせて、水は使い放題で、24時間コンビニで食料が手に入るような日本の暮らしは、たかだか5~60年ほどの歴史です。
なぜそうなったかというと、一つには人間が思っている発展の形を、人間は人間の都合だけで考えたということ。
もう一つは世界中で圧倒的に多い、一神教の人たちの考え方もあります。一神教は、神が人間のために自然を与えてくれたというところから物事を考えます。与えてくれたものは無限に使ってもよい。取りすぎたらなくなってしまうという感覚は、島国で狭い国土の中だから持てたのであって、大平原の中で暮らしていたら、自然は無限だと思ってきたのだと思います。

5~60年前までは、戦争はあったにしろ、どの国も、自分たちの国で食べて暮らしていました。そのころは人口が30~35億でしたが、わずかこの5~60年の間に、人口は75~77億と、倍以上になりました。それは人間が科学技術というもの持ち、文明を持ったから。文明を持つことによって、自然が見えなくなり、人間は自分たちのことだけを考えるようになったのです。今は、クリック一つで明日、地球の裏側からモノをこちらに運ぶことができます。それは、欲と、頭の中の世界で、実際に目の前にある風景と自分が生きている風景が乖離してしまっている状態。 現在はAmazonの向こう側には無限の地球という供給してくれるものがあると思っていますが、かつては目の前の山を見ながら、今年は木を伐りすぎてしまったという、目に見える範囲で行動してきました。 手に触れられて、五感で確認できる範囲の自然の中で生きていた時は、「足るを知る」という節度が生まれたのです。グローバリズムの中では節度は生まれません。

SDGsの前に、1992年にブラジルのリオデジャネイロで、世界で初めての環境サミットが行われました。環境問題は、レイチェルカーソンが「沈黙の春」を書いたのがきっかけとなりましたが、そのさらに20年前の1970年代の頭にローマクラブという学者たちの集まりが「成長の限界」という本を出して、自然は有限だぞ、無限ではないぞと警鐘を鳴らしてきましたが、それは引き合いには出すものの、誰も信じませんでした。特に政治家と企業は全く信じないし、見ないことにしようとしました。その頃はまだ無限に欲しいものが手に入ったから。ところが1992年の5年くらい前、1年間に人間が自然の成長量… 生きとし生けるもの、木が大きくなったりお米が大きくなったり、動物が子供を産んだり… そのすべてを人間が使うような社会になってしまいました。それが1987年といわれています。これは大変だということになり、地球上には他の生き物もいるし、みんなで生きなきゃいけないのだからと、世界中の首脳が集まりました(日本からは竹下さんが行ったと思います)。環境問題はこれから重要、地球は有限だということを考えよう、そのためには「サスティナブル」… 日本語でいうと持続可能な社会、持続性、今のまま地球が続いていくということがすべてのことの中で、一番優先だよということを掲げました。今全人類は地球の1.8個分くらいの自然の成長量を使っているにもかかわらず、人間が使う自然の成長量は全く減りません。その原因の一つは人口が増えていること、もう一つは文明社会が発展して、物をたくさん使っていること。好きな時に電気を使い、ガスに火をつけ、クーラーのスイッチを入れるということをみんながやるようになったということが圧倒的に地球の資源を食べています。

私が子供の頃はまだお風呂を薪で焚いていました。
祖父が毎日薪を割り、お風呂を沸かしていました。地球から見たら、たかだか5~60年。そんな短い時間に人間の文明社会は一気に進化したのです。
薪は、昔はよく子供が集めて来いといわれました。薪は近くから持ってくるものでした。
その時の薪は大切でした。全部使ったら、また山に、えらい汗をかいて、苦労をして、もっと遠くの山にとりに行かなければいけなかった。だからみんな、なるべくその薪は大切に使おうと、熾火、置き炭もつかったし、無駄なくその薪を使いました。ところが今は、スイッチ一つで、お湯が出るし、いくらでも燃料でガスをつけることもできます。そうなるとどうしても人間は使い放題使います。しかも、これは私たちの感覚では贅沢ではない、普通の当たり前の生活。なおかつ、電気はほとんど火力発電所で石油や石炭を燃して造られたエネルギーで、そのエネルギー量の良くても3分の1くらいしか電気にはならない。だから、この私たちの当たり前の便利な暮らしは、地球から見たら、ありえない危ない連中たちなのです。

この話は長くなるので、次回に続けたいと思います。

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