旭川への旅支度
―中尾
年の瀬というのでしょうか、もうあと1週間、今年も最後の週となりました。早いですね~。
―澁澤
早いですねえ。特にコロナであんまり動いていませんから、あっという間に過ぎていきますね。
―中尾
ほんとですね。
来週は、久しぶりの旭川なんですよね。
このラジオが始まってから、実は一回も旭川のお話をしていないので、今日は旭川のお話をしようと思います。
まず、なぜ旭川かというと、旭山動物園に長く飼育係として勤められて、その後絵本作家になられた「あべ弘士さん」と知り合ったことがきっかけでした。(著書は200冊以上で、有名な作品は「あらしのよるに」です。)
―澁澤
いつ知り合われたのですか?
―中尾
私が40歳くらいの時だったと思いますので、もう20年くらいのお付き合いなのですが、きっかけは在宅ホスピスの先生の本を作るお手伝いをしていた時に、内容が少し重かったので、かわいい、楽しい挿絵が欲しいねと言って、「あべ弘士さんにお願いしたらどうかしら」と提案したのですが、出版社さんには「そんな先生だめだ」って断られたんです。「そんなすごい先生に描いていただくお金はない」とか、「忙しくてつかまらない」とか言われたのですが、「私がご連絡してみても良いですか?」って電話してみたら、絶対に出ないはずの先生がお出になられて、「いいよ」って言ってくれて(笑)、すぐに決まって、じゃあ、明日伺います!といって翌日旭川に飛びました。その日が私の41歳か42歳かのお誕生日だったのです。
注:「いいよ」と言ってくださったのは、忙しいからそのために描くことはできないけど、描きためた絵の中から使えるものがあるなら使っても良いという意味です。奥様が医療関係の方でしたので、在宅ホスピスの本ということで、後押ししてくださったおかげで、何でもお受けしてくださるわけではありません。(念のため)
―澁澤
そうでしたか。
―中尾
それで、あべさんの行きつけていた「三四郎」さんがお休みだったので、もう一つの「明治屋」というこちらも古い居酒屋さんに連れて行っていただいてごちそうになったのが始まりです。
―澁澤
三四郎さんというのも、地元の居酒屋さんですよね。
―中尾
そうです。誰でも知っているみたいに言ってはいけませんよね(笑)
「孤独なグルメ」にも出ていますが、おかみさんがカッコイイ地元の老舗の居酒屋さんなんですが、「あべさんはアトリエに居なければ、三四郎にいる」といわれていました。
―澁澤
良いですね。飲み屋さんに居ついている人に悪い人はいないです。
―中尾
アハハ… そうですか。
そこであべさんは絵も描いていましたし、編集者の方々も家にいなければ三四郎にいっていました。
―澁澤
落語に出てきそうなキャラクターですね(笑)
―中尾
ほんとですね。旭山動物園の看板とかもあべさんが手がけていらっしゃって、そのデザインも旭山動物園が有名になった一つの大きな要素だったと思います。
澁澤さんも昔、バイオパークという動物園を経営されていらしたんですよね?
―澁澤
はい。経営者をやっていたのですが、山の中の田舎の動物園だったものですから、都会の下水が来ているわけでもないですし、山の中で調達した水で、汚水処理も自分たちでやらなければいけなかったわけです。当然施設を作るようなお金はありませんから、自然界の知恵だとか、生物の力を借りて、汚水の処理をしていたんです。ホテイアオイやクレソンという草を使ったり、あるいは酸素を汚水の中に入れてバクテリアの力を借りたり、とにかくお金がなかったので、知恵を出し合って必死にやっていたことを、その当時の旭山動物園の方々が見に来られて、そんな方法があるんだということがとても印象的だったと、後からあべさんにはお聞きしました。
―中尾
当時は、旭山動物園もお金がなくてつぶれかけていたんですよね。
―澁澤
そうですね。旭山動物園も行動展示と言ってます。私たちは生態系展示と言って、同じことなんですけど、動物は普段どういう動きをして、どんなふうに暮らしているかを見せようという動物園です。
それまでは、上野動物園に代表されるように、動物園というのは標本展示だったのです。ヒョウってこういう動物、ライオンってこういう動物、だから、みんな四角い狭い檻に入れられて、「ああ、これが虎なんだ」ということを見ることが目的だったのです。そうするとね、動物がどんどん死んでいくのです。そりゃ人間でもそうですよね、牢屋に入れられているようなものです。しかも外からジロジロジロジロ見られるわけですから、緊張感はただものではないわけです。ですので、動物はほとんどストレスで死んでいく。近年になって、自然保護だとか、生態系保全だとか言われだして、それはもう自然に対してやってはいけないことなのではないかと、段々そういう動きになってきたのです。
その中で、じゃあ動物が動物らしく生きている状況をまず作り出して、そして動物に負荷がないような形で人間が外から見たり、入れるなら入ってみたりとか、そういうような動物園を作りたいという動きが出てきて、長崎バイオパークも旭山動物園もそれを目指したのです。当然そうなってくると、なるべく檻は作りたくない、囲いはしたくない… そうするとね、逃げるんですよ。当然ながら…
―中尾
逃げるんですよね(笑)
逃げる話、めっちゃ楽しいですよね。
―澁澤
逃げる話は多いのですが、そんな中でどの動物も共通しているのは、メスを捕まえれば、オスは逃げても帰ってくる。ところが、オスを捕まえて、メスが逃げると帰ってこないんです。
―中尾
アハハハ… それって動物の話ですよね?
―澁澤
動物の話です。そういうものなんです、動物は。
そういうことをいろいろ勉強させてもらいました(笑)
―中尾
人間も動物なんですね。
海に浸かってね、澁澤さんがカピバラをだいて帰ってきたというお話とかありましたね(笑)
―澁澤
本当に、ある日、カピバラが全員で海水浴に行かれたわけですよ。
漁師さんから電話があってね、「お宅のところの動物が海を泳いでるけど、大丈夫かあ」って言われて、そこで初めてみんな気づくのです。まさか海に逃げているとは思っていなかったわけですよ。もともと海にいる動物ではないですから。それを追っかけて、飼育係が一人一人海に飛び込んで、一人一頭捕まえろって言って、捕まえるわけです。
―中尾
すごいですね~(笑)
一方旭山動物園では猿が逃げちゃうわけですよ。
いつもは中の水道からホースをつないでいたのが、外のホースをつかったんですよね。そうしたら、そのホースを伝って、どんどんみんな逃げちゃったらしいんですけど、そうしたら動物園の周りは果樹園で、帰ってこないという悲惨なことがあったようです。
―澁澤
それはもう、猿の気持ちはよくわかりますよね。
コロナでずーっと閉じ込められてね、外に出てみたら、レストラン全部開いてるじゃん!ってことでしょ。
―中尾
しかも無料ですからね~(笑)
それはそれは楽しいお話をたくさん聞かせていただきました。それで、いよいよ旭山動物園はもうだめだという段階になって、飼育係の方たちみんなで考えるんですよね。お金にとらわれないで動物園をつくるとしたら、どんなのが良いかと。すると、空飛ぶペンギンとか、夢のようなアイデアがいっぱい出て、あべさんは絵が得意だったから、そのみんなで考えた夢の動物園を絵に描いて、市に提案したのです。そうしたら予算がついて、その時、ちょうどアクリル板ができた時で、アクリル板でカーブをつくれるようになって、トンネルができて、「空飛ぶペンギン」の夢が叶って、旭山動物園が復活したのです。それからシロクマ館ができ、アザラシ館ができて、どんどん旭山動物園が有名になっていきます。わたしが行ったときは、シロクマ館はすでにできていましたけど、それでもまだ動物園はガラガラでした。それからだんだん動物園に来る観光客が増えて、当初の想像をはるかに超えた入場者になるのですが、旭川の市内には人が来ないのですよ。
―澁澤
旭川の町自体は、第七師団という最強の軍隊を対ロシアに睨みを利かせるために旭川に駐留させたのです。そのための町ですから、軍隊をどう支えるかという町でした。町の中に戦車が通っていたところを、1960年代に五十嵐浩三さんという当時の有名な市長さんが日本初の歩行者天国に変えたところから、まちづくりが始まったのです。
―中尾
そう、凄い市長さんだったんですよね。
で、動物園に来た人たちは、札幌に泊まったり、富良野に泊まったりで、旭川の町のなかには来ない、そのつながりが持てないというので、「じゃあ町にあべさんのギャラリーを作って、まちの中心地にも来てもらいましょうよ!」といって始めたのがきっかけでしたね。10年通いました。
―澁澤
ずいぶん変わりましたよね。
―中尾
変わりましたね。でも、当初は動物園の観光客に町にも来てもらうためだと私は思っていたのですが、地域に入ってギャラリーを運営してみると、どうもそうではないなと思い始めて、地元の人たちが楽しめる場所がたくさんあって、地元の人でにぎわう方が良いなと思うようになりました。
―澁澤
軍隊のための町だったのが、そこに住む住民のための町に。まさに五十嵐さんから始まった地域市民のための町になっていこうとしている、その一部分をお手伝いさせていただいたという形ですね。
―中尾
そうですね。そんなかかわりの深い旭川から来週、再来週と2週にわたってゲストお迎えしたいと思います。
―澁澤
大雪連峰がすごくきれいに見えるんですよね。
―中尾
はい。今年は旭川で終わって、新年は旭川のあべさんから始めます。
どうぞお楽しみに。
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