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ゲームをやり込んだからこそ、教育ツールとしても使いこなせる
ゲームは害悪なのかどうか、という点については様々な議論があるようですが、こちらの記事にもあるとおり、結局のところは人による、つまりは使い方次第ということなのだと感じています。
確かに、ゲームには中毒性があります。
「もっと遊びたい」、「もっと他者と繋がっていたい」という欲求を巧みに掻き立てるように作られているからです。
何を隠そう、私自身もゲームをやりまくった末に人生を狂わされた経験があります。
ですので、ゲーム依存症になることの危険性は理解しているつもりです。
しかし、ゲームはうまく使えば教育やコミュニケーションのための良きツールにもなります。
リアル世界では”根暗ぼっちコミュ障”である私が、ほぼノー勉で大学受験というクエストをなんとかクリアできたのも、標的を絞り、攻略法を編み出し、最少の投入リソースで最大限の成果を出すための訓練を、長年ゲームの世界でやってきたからこそだと確信しています。
5歳になった娘にゲームさせてみた
さて先日、5歳の誕生日を迎えた娘に、ポケットモンスター Let’s Go! ピカチュウ/イーブイ(の、イーブイの方)をプレゼントしました。
娘にとっては人生初のゲームです。
幼少期からポケモンに入り浸ってきた私としては、ポケモンはもはや一般教養だと思っていますし、「未就学児でも楽しめそう」、「ポケモンは第一世代から入るべきという偏見」などから、実験的にやらせてみることにしました。
私自身はピカブイをプレイしたことがありませんでしたが、第一世代のポケモンはいまだに種族値まで即答できますし、舞台であるカントー地方のマップも正確に書けます。
イワヤマトンネルを抜けられないとか、クチバジムでマチスにたどり着けないとか、娘が要所要所で壁にぶつかり助けを求めてくるさまが容易に想像できましたが、ディテールを知り尽くしているからこそ、いつでもアドバイスができると思ったわけです。
まあ、何が言いたいかというと、ゲームを良き道具とするには、ゲームのことを深く知っていなければいけません。(そして、わが家にとって、ポケモンは父親の威厳を示すことのできる数少ない領域だったりします。)
で、どうなったかというと、今のところは良く機能しています。
娘にとって、文字を読むことはかなりの負荷だったようですが、自ら積極的に文字を読むようになりました。
ゲームに限らず日常生活で文字を見つけては読み上げるようになったのは大きな進歩でした。
また、習いたてのカタカナを音読する訓練にもなっています。
思い返せば、私自身もゲームデビューは4~5歳でした。なぜこのタイミングでゲームを始めたのか、親になった今ではわかります。
それは、ちょうど弟が産まれたタイミングであり、当時の両親は兄となった私を黙らせたかったんだと。
つまり、ゲームが私の子守りをしていたんですね。
適切なタイミングで、適切なゲームを引き出してこそ、真のゲーマー
子どもには早いうちから「やればできる」という感覚を身に着けてほしいと思っています。
子どもにiPadを与えると呆れるくらい際限なくYoutubeを観ますが、このような受動的体験では「やればできる」という感覚は得られません。
その点、ゲームは上達感を絶妙に演出してくれるようできているので、上手く活用していきたいところです。(本当はスポーツや音楽なんかをした方がいいのですが、その辺は私が教えられる分野ではなく、、、)
ゲームやってるとバカになるわけでは決してなく、やはり使い方次第なのでしょう。
ポケモンだけでも、「戦略と戦術」、「選択と集中」、「確率と期待値」、といった考えに触れることができます。
せっかくやるなら深いところまでやり込んで、突き詰めたからこそ見える世界をぜひ見てほしいと願っています。
また、ゲームは良き人間関係を構築するためのコミュニケーションツールとしても役立ちます。
近年では日本のゲームは海外でも広く遊ばれており、もはやゲームが共通言語になっていたりします。
例えば、とあるインドの6000m峰に登っていた時のこと。
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テント場で若いロシア人のパーティーと一緒になりました。
自己紹介がてらに、「私、北海道から来ました」と言ったら、彼らはなんと国後島の漁師だったらしく、一時、場が凍り付きました。
気まずい雰囲気を打開しようと、「何か日本のゲームやったことない?」と持ちかけたら、マリオカートの話で盛り上がり、なんとか楽しく一緒に夕食を摂ることができました。(当時、札幌周辺でリアルマリオカートが出没する話をしたら爆ウケでした)
こんな感じでゲームに救われることもありまして、私なんかは妻との関係がこじれた時に買うゲームを考えてあります。
夫婦関係が悪化する原因のだいたいは長期に亘るコミュニケーション不足だと思っていますが、残念ながら趣味も思考回路も全く異なり、共通の話題も多くない妻との対話のとっかかりとして、ここぞという場面でゲームにすがりたい次第です。
このように、ゲーマーとしての真価は、適切なタイミングで、適切なゲームを引き出せるかどうかに問われるわけです。
プレーヤーとしての腕の良さ、プレイ時間や頻度の多分だけでは決してダメなのです。
日本のために、ちゃんとゲームします
と、偉そうなことを書いてきましたが、白状します。
私は比較的最近ゲームを再開したばかりで、10年ほど全くゲームをしていなかった時期がありました。申し訳ございません。
久しぶりにゲームをやると、めちゃくちゃ進化していて驚きました。
どのゲームも、とにかく快適性が大幅にアップしています。
チュートリアルが充実しているうえ、いつでもどこでも復習でき、
無駄な移動時間は省かれ、
アイテムには詳細な説明が付され(このアイテム、どんな効果あるんだっけ?と、いちいちゲームを止めて調べる必要がない)、
オンラインで他人とプレイするために人間関係を築く必要がない
というように、これまでプレーヤーが煩雑に感じていた部分が徹底的に排除され、ゲーム本来の楽しみに集中できるようになっています。これは素晴らしいことです。(その反面、レベル上げなどが易化し、簡単に攻略できるようになった感は否めませんが)
10代の頃と自分と違って、今ではキャラ名や地名をほとんど記憶できなくなってしまいましたが、開発側はそれすらも織り込み済みなのか、どのゲームも支障なく遊べています。
そして、実はスイッチに初めて触れたのが2022年の末でしたが、ソフトがデータ配信になっていて衝撃を受けました。
商品の製造や配送、在庫管理といったサプライチェーン上の制約がなくなったことに加え、どのハード・ソフトも多言語に対応されており、「こりゃ世界中で売れるわ」と、腑に落ちたものです。
米調査会社Grand View Researchによると、世界のゲーム市場規模は2030年には現在の2倍に拡大するようです。
年間でおよそ12%という成長率で、毎年これほどまでに急成長する産業はそもそも珍しいです。
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任天堂はすでに売り上げの8割が海外となっていますが、このすさまじい市場拡大にどれだけ日本勢が食い込んでいけるかは非常に重要で、日本のゲームが国富増大のドライバーを担っているといっても過言ではありません。
ゲームをやり込むことは、ある意味国の発展に貢献することであり、むしろ日本人としてゲーム産業を応援するのは当然の義務ではないでしょうか。
という言い訳をしつつ、私は本日もゲームに興じてまいります。