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芍薬(花まくら より 024)

 「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」
 とは、最高の美人を形容した言葉である。ここに出てくる芍薬は、多年草で、手のひらを思い切り広げたよりも一回り大きい花を咲かせる、大変豪華な花である。花は普通八重で、花びらのふちは波打っており、白と桃色がぼかしになっている。花の大きさ、華麗さと比較して茎が細いのが印象的で、遠目にみると、スラリとした柳腰の美女が、匂うような美貌で佇んでいるのを思わせる。
 私の忘れられない芍薬の思い出は、二〇〇八年の五月である。場所は京都の洛南にある、東寺だ。洛南、というのは、京都の碁盤の目のエリアより南にある、という意味で、地域柄としては下町の部類である。具体的には、北は京都駅のある七条通り、南は十条通、東は鴨川、西は桂川に囲まれた範囲だろうか。観光地は少なく、住宅街が立ち並ぶ。その中にあって、唯一と言って良い観光名所が、世界遺産の五重の塔を有する金光明四天王教王護国寺秘密伝法院、通称「東寺」だ。弘法大師を始祖とし、弘法大師の誕生日である二十一日を記念して、毎月二十一日に弘法市という市が催されている。朝早くから始まるこの市場は、特に仏教と関わりのないものも含め、雑多に、食品、衣類、小間物、古物、アクセサリーなどの露店が立ち並ぶ、賑やかなものである。特に十二月二十一日の弘法市は「しまい弘法」と呼ばれ、年末年始の支度を買い求める人でひときわ賑わう。中には、本来なら仏教ではなく神道に由来する、しめ縄を扱う店もいくつか出る。その辺りは神仏混合の大らかな考えの元、それでも、しめ縄、とは呼ばず「正月飾り」として売られている。神仏混合、といえば、東寺の敷地の南西の角には、鳥居も祀ってある。大きなお寺では珍しくない光景だが、これも日本独特の文化、歴史を感じさせる遺産という意味では、取り上げておくべき点かと思われる。
 私が東寺を初めて訪れたのは、小学六年生の時。ろくろく記憶も残っていないが、修学旅行の旅程の中に含まれていて、立ち寄ったはずである。五月、というのは修学旅行のシーズンには早いのだが、私が二〇〇八年に東寺を訪れた時には、中学生だろう、制服を来た生徒たちが四、五人集まって見学をしていた。最近はグループごとに一台ずつタクシーの運転手がつく、というのがパッケージらしく、引率の大人は教師ではなく、タクシーの運転手である。京都に修学旅行に来る中学生は、大体が静岡以東の地域の生徒である。言葉のなまりに気をつけて様子をみていれば、彼らが関東の出身だということがわかる。東寺にいた修学旅行生たちのグループは、有料の観覧区域の入り口付近にある緋毛氈の腰掛けに三々五々に腰を下ろし、ペットボトルのお茶を購入して回し飲みをしていた。五月にしては暑い、日差しのきつい日だった。
 私はその日、リクルートスーツを着ていたので、ことに暑さが辛かった。もう用の済んだジャケットを片腕にかけ、格好ばかりのシャツの前を開けて、これまた買ったばかりで板につかない合皮の黒カバンを下げて、下ろしたてのパンプスを履いて、慣れないパンティストッキングに着心地の悪さを感じながら、砂利道を歩いた。
 せっかく愛知県から京都まで来たのだから、どこか観光して帰ろう、と思い、就職面接の帰りに寄ったのが、東寺だった。東寺に特段の興味があったわけでも、そもそも仏閣に関心を寄せていた訳でもなかったのだが、面接会場として指定された任天堂の本社から一番近い、最寄りの世界遺産が、たまたま東寺だったのである。距離でいえば、伏見稲荷も良い勝負だったが、東寺の方が京都駅に向かいがてら寄れる、という立地の良さで勝った。
 しかし、暑いな、と私は額の汗をぬぐった。
 面接の手応えは、よくわからなかった。実は私は任天堂が初めての面接で、しかもその一社しか、応募しなかったのである。何という無謀な挑戦、というのもまた違うのだが、私の本命の就職先は、中国の大連にある、ハンゲームの関連会社で、ハンゲームとは後に二〇一〇年代から日本で広く普及するSNSサービスのLINEを開発するところである。そこは採用と同時に大連に移住する、ということを前提としていて、私の希望としては、そこで三年ほど過ごした後、中国語の喋れるプログラマーとして日本に帰ってくる、そういうプランだった。なぜ、そんなプランを立てたのか、なぜ若い女性が単身、中国行きを思い切ったのか、といえば、全ては高校をドロップアウトしたところから話は始まる。
 私は中学校もまともに出ていない。だが、中学校はまともに通わなくても卒業できる。ほとんど履修したとは言えなくても、時期がくれば、卒業式が来て、さようなら、である。私は流されるまま、それでもある程度の形を保って、当初は中堅の普通科の高校に進学した。私の中学校三年生の成績は、内申点は見事にズタボロ、テストの順位は三百人中五十番そこそこだった。しかし、本来の学力は構内で十位に入る程度の実力があった。きちんと学校に通って授業に出ていたころは、それくらいだった。落ちこぼれの反対に「浮きこぼれ」というのがあるのだが、私がまさにそれで、地方都市の公立中学校にあって、私の存在は枠からはみ出し、周囲に迷惑をかけ、空回りをし、あげく自分の人生を狂わせた。後年受けた知能テストでIQ一三二を出した時、これをもっと早くに知る事ができたら、私の人生は違っていただろうにな、と思った。中には救ってくれようとする教師もいたが(数学の担当教師だった)、私はその手にすがって導いてもらうことが出来なかった。なまじお勉強は得意だったせいで、あまり通わなくてもテストの順位はほどほどのところで下げ止まり、そのまま、学力以外の面でも、ずるずると人生において落ちるところまで落ちる場所を目指して、降下している最中だった。そんな中で、何の希望も期待もなく高校に入学した。登校初日まで、その高校がどこにあるのかも、私は知らなかった。私は一週間で高校を休学した。全てが中学校の延長、何一つ変わらない。うんざりした。一年休学の途中では、八月に母が自殺するなど、色々あったが、最後には、私は来年度からは高校に戻ることを決めた。入学、休学、復学、そして、そのあと、二年生になる時、私は通信制の高校に転校した。もう、全然、普通科の高校生活が自分に合わず、ダメで、やっていけるとは思えなかったからである。私が転校し、あらためて通うことになった通信制の高校は、高校卒業資格を得るための民間企業だった。学校という体裁を持っているが、実際のところは業者という側面が強く、課題はマークシートに記入されていれば正答率は問わず、週一回の授業は形のみで、座っていれば良い、というところだった。だから、私はまともな高校も出ていない。高校で習うことは、全然、わからないのである。
 高校を卒業し、私はコンピュータの分野の専門学校に入学した。名古屋ではテレビコマーシャルを知らない人のない、コンピュータ総合学園HALである。以前からコンピュータサイエンスに興味があり、今後発展していくだろう、その分野について勉強すれば、先が見えるだろうという、もくろみだった。プログラムは中学校時代から少しかじっていて、多少なりとも素養はあった。
 この選択が大失敗だった。私が選んだ専門学校というところも、通信制の高校と同じく、学校の体裁を持ってはいこそすれ、本質的には民間企業、業者であった。一度入学してしまえば、途中で進路を変えるというのはつまり一年を棒にふる、ということで、それが二年生、三年生、となると、ますます枷になってくる。思い切って辞める、という選択肢は基本的には無いのである。つまり、授業の質にどれほど文句を付けようが、入ってしまった以上は出られない。学生は諾々と授業料を収める、箱の中の蚕のような存在である。テレビを見れば、毎日、学校のコマーシャルが流れている。最先端のコンピュータサイエンスを学べる、素晴らしい場所のように、描かれている。広告など、所詮、大なり小なり虚栄でしかないものだが、ここまでとは思わなかったな、と、しばしば見かけるたび、苦い思いをしたものである。
 そこで、私は目が覚めた。私の通っていた学校は名古屋駅前にあったのだが、在学中に、駅前に新しい商業ビル、ミッドランドスクエアが誕生した。ミッドランドスクエアは、高級志向の顧客向けの施設で、ブランドショップや、高級レストラン、ハイクオリティな生活雑貨の店が軒を連ねていた。私は学校への行き帰り、いつもそのビルを見上げていた。夜、光り輝くビルを指をくわえて眺める内に、次第に、このままでは私はもう、あのビルにある店に出入りして買い物をするような層の人間にはなれないのだ、と痛感するに至ったのである。そのころの私と言ったら、底辺中の底辺、酒瓶の底に残ったカスを舐めにのろのろと這いずり回るナメクジに等しいほど落ちぶれていて、実際問題、就職先も限られるような状況だった。
 それで私がしたのは、自分の髪を剃り落とすことだった。夜、自分でカミソリでもって、自分の頭を剃髪した。朝、孫娘がスキンヘッドになっていた時には、祖父母は死ぬほどびっくりしたと思うのだが、年の功か、もう私の奇抜な行動には慣れっこだったのか、祖父母からの反応はあまりなかった。
 それで心を入れ替えた私は、合格率六パーセントの最高難易度の国家試験に挑んだ。そして合格した。データベーススペシャリストの資格を得た私が、次に考えたのが、いかに自分の価値を高めるか、ということだった。自分は専門学校卒で、学がない。このまま就職活動をしても、ろくな就職先は望めないだろう。このままじっとしていても、道は拓けそうもない。何かもう一つ、強みになるものがないと。そして選んだのが中国語だった。今後のビジネスは、ますます中国とのやりとりが盛んになる。それはコンピュータの分野でも同じだ。むしろ、だからこそ、ますます需要が高まる、と私は思った。私は、日本国内で数少ない、中国語を話せるプログラマになる。そのために、一旦中国で就職する。それが私の出した結論だった。
 そういう経緯で、私は中国大連にある会社を志望した。それでなぜ、任天堂にも応募したかと言えば、せっかくなので、日本国内で一社、ここに受かったならば、ぜひ勤めたい、と思える会社を一社だけ受けてみよう、と思ったからである。私にとって、それが任天堂だった。そもそも、中国語を学ぶために中国へ行こうということ自体が、よりよい就職先を求めるためなのだから、最初から任天堂に入社できれば、回り道をせずに、いきなりゴール、というわけである。
 振り返ってみると、実はこの中国行きの計画が、私が任天堂に採用された合否を決めた、大きな要素だった。面接できかれた事の一つに「任天堂に落ちたらどうするの」というものがあった。私はすかさず「中国に行く、中国に三年行って、中国語のできるプログラマーとして、日本に戻ってくる」と答えたのである。その時、面接官をしてくれた方と入社後に再会した時、その返答が採用の決め手だった、と教えてくれた。
 そんな事もつゆ知らず、私は、その面接帰りに東寺に寄り、ぶらぶらと観光をした。芍薬が満開で、とても綺麗だった。元より受かるつもりで来ていないから、気楽なものである。往復の交通費を出してもらって、気分は気ままな日帰り京都旅行である。
 帰り際、験担ぎに、おみくじを引いた。なんと大凶だった。これは、つまり、落ちたってことかな、と思いながら、私は東寺を後にした。数日後、電話が来て、面接を無事通過したという連絡を受けた。
 その電話の後、私が一番最初に思ったのは、おみくじってやっぱりアテになんないな、という事だった。

次のお話は…


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