ホトケノザ(花まくら より 011)
ホトケノザは、道端に生えている雑草である。春の七草は「セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ」だが、ここにでてくるホトケノザとは違う。春の七草に数えられているホトケノザは、別名、コオニタビラコというキク科の植物で、これは食べられる。道端に生えている雑草のホトケノザは食べられない。
雑草の方のホトケノザは、葉っぱのつき方がちょっと変わっている。下から茎がピューっと伸びて、ポンと台座のように円になって葉がつく。そこからまた茎がピュッと伸びて、ポン、と丸く葉がつく。これが三段から四段繰り返す。イギリスのアフタヌーンティーで使われる食器に、皿が二段三段と重なる、ケーキスタンドというものがあるが、あれによく似ていると私は思う。
ホトケノザの花は、茎の途中についた、円形の葉の中央よりに咲く。色は紫色で、形はすぼまった筒状である。先端の広がった部分は、蘭の花に似ているかもしれない。大きさは一・五センチほど。小さな花である。草全体も、大きくて十五センチ、小さくて八センチあるかないかだろうか。畑の周りによく生えている。雑草とはいうものの、肥沃な土地を好む性質があって、アスファルトの隙間や、カラカラに乾いたグラウンドの周囲では見かけない。主に畑、田んぼ、そういった柔らかくて、肥えた土のあるところに群生している。私の生まれ育った岡崎市は、一九九〇年当時はまだまだ畑や田んぼの残る片田舎だったので、ホトケノザが生えているのは珍しくなく、よく見る雑草の一つだった。大人になってから、引っ越してきた京都では、あまり見かけない。ホトケノザは、街中に咲く花では無く、のんびりとした田園風景にある花なのである。
ホトケノザには、蜜がある。蜜が吸える、というのが、花の一ジャンルとして私の中にはあるのだが、その中の一つ、代表格と言ってもいい。ツツジと並ぶ、ツートップの片方である。
ホトケノザの蜜は、管状になった花の根元に溜まっている。小さな花は、四、五本まとめて咲いている。それをまとめて指先で花の先端をつまみ、ピッと葉から引き抜く。花は若干の手応えがあるが、綺麗にスポン、と抜けてしまう。そのつまんだ花を、そのまま口の方へ持って行き、根元を吸う。花は全体に紫色だが、根元の方は白くなっている。チュッチュと吸うと、ほんのりと甘い味がする。ほんの少しの物だから、しゃがんだまま、よちよちと歩いて、指で花をつまんでは吸い、ちょっと移動しては、花をつまんでは吸い、する。友達とそうやって遊んでいたのを覚えている。
時々、蜜のない花に当たることがある。蜜のある花と無い花を見た目で見分けることはできない。吸ってみて初めて、あれ、甘くない、となる。ちぇっという気分である。なぜ、蜜の無い花があるのか、花がさぼっているわけでは無いはずなので、たぶん、何かが私より先に蜜を吸ってしまったのだろう。何か、というのは蝶とか蜂とか蟻だとか、そういう虫だと思う。モンシロチョウがホトケノザの近くを飛んでいるのを、よく見かけた。子供の頃は全然思わなかったが、虫と争って花の蜜を吸っていたと思うと、ずいぶん野生児めいたことをしていた感じがする。
私は今でも、ホトケノザを見ると、蜜を吸ってみたくなる。だが、滅多にやらない。京都の街中にホトケノザが生えていること自体が滅多に無い、という事情もあるが、一番大きな要因としては、汚い気がする、ということである。この不浄観は、成長するにしたがって備わるものらしく、私はアホの子だったので、周りの子よりも不浄観が芽生えるのが遅かった。今でも、これなら大丈夫そうかな、と思う場所に生えているツツジやホトケノザになら、口を付けても平気、という点では、全然成長していない。その大丈夫そうかな、の基準が他人に比べて、ゆるいのである。ダメな人は外に生えている雑草を口にするなんて考えもしないだろうし、考えただけでも鳥肌が立つ汚さだと思う。十歳すぎたころには、おませな友達が、凛ちゃん、その草は汚いから、蜜を吸うのはやめた方がいいよ、と教えてくれたりしたものだが、そう言われても何のその、大丈夫だよ、と答えてチュッチュしていた。田舎の方の話だから、犬の散歩、猫の放し飼い、考えてみれば道端の草の清潔さなど、何の保証もないのだが。大丈夫、という根拠のない自信を裏付けに、私はホトケノザに親しんでいた。
そんな私にも、ホトケノザとさようならする日はちゃんと来た。中学校に上がる頃には、道端でホトケノザを見つけても、むやみやたらにチュッチュする事はなくなり、雑草を見て、不潔を感じるよう、人並みに成長したのである。遊びも野外から屋内のものへと関心が移り、小説や漫画、ゲームなどに興じるようになった。
それでも時々、川べりを歩いていると、ホトケノザが目についた。昔はよく、これをチュッチュと吸ってたな、きったなーい、などと思っていた。思春期のころの自分は、今よりも不浄観を強く持っていたかもしれない。思春期特有の潔癖さというか、偏った浄、不浄の概念というか、無秩序で不条理な衛生観念が形成されていた。誰かの風呂の後に入るのが嫌だとか。賞味期限が一日でもすぎた食べ物は受け付けられない、とか。一方で、面倒臭いという理由で掃除を怠ったり、だらだらとソファで食べ物を食べたりすることは平気な一面もあった。思春期の過剰な衛生意識は、全然、理屈ではないのである。そんなこんなで、私の生活から、ホトケノザからは遠のいていった。まぁ、中高生になってまで、しゃがみこんで雑草をチュッチュチュッチュと吸い回っているのも幼稚すぎると思うので、ある意味、健全な成長ぶりだったとも言える。
そして三十四歳の今になってみると、ホトケノザの蜜を吸う、という行為は、郷愁ただよう、幼いころの優しい思い出である。幼少期、思春期、と来て、なんだか一周回った感がある。私の子供は四歳と五歳で、まさにホトケノザの蜜を吸うにはベストな年頃なのだが、彼らにも、ホトケノザの蜜を吸うことを教えたい、と思っている。京都ではあまり見ることができないが、公園に行けば、ちらほら、と咲いているのを見つけることができる。
こうして、と花をつまみ、こうするんだよ、と花の根元を吸う。
やってみてごらん、甘い味がするんだよ、と教えてあげたい。これも、あんまり歳が行ってからだと、汚いだのなんだの、余計な情報が入ってしまって、楽しむことができなくなるから、教えるなら、そういうことがわからない、幼い頃にやってしまうべきである。悪いことを教える、という向きもあるかもしれないが、私はそうは思わない。自然に親しむ、という事は、こういうことである、と私には思える。自然というのは、完全に清潔というのはありえない存在なのだ。雨がかかっているから、ほこりがついているから、と、ばかり言っていては、つまらないと思う。
陽だまりの中、心地よい春の陽気に誘われて、草花の蜜を吸う。何と牧歌的な体験だろうか。
ホトケノザはそういう植物である。
さて、次のお話は…
一つ前のお話は…
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