見出し画像

キンモクセイ(花まくら より 008)

 キンモクセイがいつの時期の花なのか、改めて考えてみると、記憶が不思議なほど、さだかでない。秋だったか春だったか、初夏だったか、気候のいい時分に咲くという印象は強くあるのだが、じゃあそれが、何月だったっけ?となると急に曖昧になってしまう。調べてみる。九月であった。
 キンモクセイの香りは、異世界と繋がる扉の隙間から香って来るような気がする。
 私の生まれ育った家には、キンモクセイの木が植えられていた。玄関の塀の影に、こっそりとひょろりと生えていた。キンモクセイの記憶はこの木から始まりそうなものだが、この木は貧弱だったので、あまり印象にない。私の印象に強く残っているのは、お向かいの家の広い庭のど真ん中に生えた、大きなキンモクセイの木だ。我が家の貧相なキンモクセイと比較して、お向かいのお宅のキンモクセイは立派だった。広い敷地の中心に生えているから、ほとんど剪定されることもなく、丸く自然な樹形をしていた。それが何とも伸びやかで、私は自室の窓から眺めるたび、いつか私もあんな風に木を植えてみたいなぁ、と思った。お向かいのキンモクセイは、とても日当たりの良い場所に植えられていて、花もたくさんつけた。香りも道路を挟んだこちら側にまで、流れてきていて、私のキンモクセイ好きは、この木で育まれたと言っていいだろう。私にとってキンモクセイとは、穏やかな秋の日の、小春日和に添えられた、とっておきの香りである。
 キンモクセイの香りは、歩いている時に、ふと、ある箇所から突然に、別世界に踏み込んだように香って来ると、私は思う。あの独特の甘い香りが、昔はトイレの芳香剤によく使われていたとか言って、嫌う人がいるが、私にはその記憶は無いから、純粋にキンモクセイの香りは甘く、芳しく感じられる。バニラとも違う甘さである。あのオレンジがかった黄色の花たちにぴったりの香りである。キンモクセイの花は、星くずのような五弁をしていて、根元は細い筒型である。花は地面に降り積もるように散る。
 いつだったか、奈良に一人旅に出た時、キンモクセイの大木が立ち並ぶ場所を歩いたことがある。両側を背の高い塀に閉ざされた路地だったのだが、その塀よりも高いキンモクセイの木が、路地を覆うように迫っていた。折良く花は満開で、降り積もった花弁が黄金色の絨毯になっていた。私はその上を歩くことができた。香りは霧のように私の周りにまとわりつき、狭い路地に、キンモクセイの香りが重たげに、溜まっているような、奇妙な感覚にとらわれた。あの路地はふらふらとさまよっている内にたどり着いた、夢うつつのような場所だった。
 キンモクセイの記憶、といえば、香り以外に、味の方もある。
 私の祖母が好きで、よく連れて行ってもらった中華料理屋に、キンモクセイのジャムを練りこんだ花巻があった。花巻というのは、中華風の蒸しパンで、そこのお店の花巻が特別なのだと思うが、白い生地の中に、黄色い筋が入っていて、それがキンモクセイのジャムだった。それがとても美味しかったので、私は気に入って、行くたびに楽しみにしていた。
 キンモクセイのジャム、というのがどういう味かと言うと、もちろん甘くて、そしてやはりあの独特の香りがするのである。しかし、キンモクセイは食べるものでは無いという思い込みがあるから、何も知らされず、パッと食べただけでわかる人は、まず、いないと思う。言われて初めて、確かに、これはキンモクセイだ、と気づくものである。このジャムを手に入れたくて、通販で取り寄せられないか調べたことがあるのだが、当時は業務用しか見つからず、ちょっと食べきれなさそうだったので断念した。しかし、今調べてみたら、小瓶サイズで、はなびらジャムと言う商品が見つかったので、近々、取り寄せてみたいと思う。そしてそれで花巻を作りたい。
 そういえば、キンモクセイのお酒、というのもあった。桂花陳酒という、中国のリキュールである。甘く、濃く、キンモクセイの香りがするお酒である。楊貴妃が好んだという伝説がある。私はこれをロックで飲むのが好きだった。今はお酒を全然飲まないので、記憶だよりでこれを書いているのだが、甘ったるく、まどろむようなお酒だったと覚えている。生のキンモクセイの香りと比べると、お酒につけられることで角が取れるのか、やや親しみやすい風味である。もしかしたら、中国のキンモクセイと日本のキンモクセイは、少し違うのかもしれないけれど。
 散歩していて、キンモクセイが香ってくると、私は香りの出どころを探さずにはいられない。私はキンモクセイが好きなのだ。香りをたよりに、うろうろ、きょろきょろしていると、濃い緑の艶やかな葉っぱと、そしてあの独特の山吹色の花が目に飛び込んで来る。それを見つける瞬間が、宝探しのようで、嬉しいのである。
 民家の庭に一本だけで生えていることもあるけれど、時々、オフィスの垣根として植えられていることもある。たくさん生えているのを見つけた時は、ますます嬉しい。キンモクセイが立ち並ぶ場所を見つけたら、時期が終わるまでに、もう二、三度足を運ぶ。いつか私も家に植えたいなぁ、と思う。
 キンモクセイ、キンモクセイ、どこに生えていたかな、と考えてみる。一番印象深いのは、もちろんお向かいに生えていた大きな木だが、小学校の森に生えていた木も印象深い。
 キンモクセイの花が咲く時期に、森の周りの掃除当番になることがあって、私はキンモクセイっていいなぁと子供心に思っていた。ところが、同級生の何人かは、臭いと言っていた。例のトイレの芳香剤については、私が記憶にないように、同世代の子供の記憶に刷り込まれているわけではないから、キンモクセイ=トイレ、ということで嫌がっているのとは違ったと思う。こんなにいい匂いなのに派と、臭い派は、半分半分くらいだった。これはたぶん、大人でも同じかもしれない。言わないだけで、キンモクセイが香っていると、顔をしかめたり、何となく敬遠する人も、少なからずいるのだろう。
 キンモクセイが香っているのを見つけて、嬉しくなる人、というのは、どれくらいいるのだろうか。人とこれについて詳しく話したことがないので、わからないのだが、同志がいたら一緒にキンモクセイの花見をしてみたいものである。キンモクセイの花巻に、キンモクセイのジャム、キンモクセイのお酒。キンモクセイづくしのピクニック。楽しそうだ。一緒に散歩して、キンモクセイを見つける遊びをしてみたい。
 キンモクセイは、花の盛り以外は地味な存在である。常緑樹で、葉っぱには特徴がない。刈り込まれて垣根にされると、忍者のように存在感を消してしまう。公園に生えていても、花が咲かなければそうと気づく人は稀だろう。それが、花をつけた途端、見る前に香りでわかるほどに化ける。その強い存在感で、人を振り向かせてしまう。そのコントラストも面白い。
 ギンモクセイというのもある。キンモクセイが黄色い花をつけるのに対して、ギンモクセイは白い花で、香りはキンモクセイより淡く、儚いらしい。らしいというのは、知識だけでギンモクセイというものがあると知っているにすぎないからで、私は本物のギンモクセイを見たことがない。一度どこかで見てみたいものである。京都府立植物園にいけば見られるだろうか。今年の秋には行って見たい、いや、見たいよりも、まず嗅いでみたい。
 こうしてキンモクセイのことを書いていると、どこからか香ってくるような気がする。キンモクセイは、やはり、私にとって、別の世界へのいざないを感じさせる花である。

次のお話は…


一つ前のお話は…


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?