ハクモクレン(花まくら より 003)

 京の街の西側に、南北を貫く大通りがある。堀川通りと呼ばれるその通りは、広いところで片側三車線、一部を国道一号線と共有し、ずっと南へ下って油小路通りへと連結して、片側二車線の大通りとなる。交通量の多い、京都の街の動脈である。
 今回の主役のハクモクレンは、この油小路沿いに生えている。アッと驚くような場所に生えている。油小路沿いに面した、とある民家の玄関の植木である。ハクモクレンという木は、とても巨大な木だ。森の中に生えていても、かなり大きく育つ部類に入る。
 それが、大通りの脇の歩道に、幹を乗り出すようにして、そびえているのである。根元の方は、二段もない玄関の階段の横から出ている。そこに広い庭があるわけではなく、ひと抱え以上ある幹が、五十センチ四方の隙間から、突然生えているのである。ド根性大根、なんていうような言葉、聞いた事ないだろうか。ありえない場所、アスファルトの隙間だったり、歩道の敷石の隙間だったり、とても無理そうな場所に、たくましく根を張る植物のことである。いわば、このハクモクレンは、ド根性ハクモクレンなのである。
 おそらく、最初はごく小さな苗木だったのだと思う。ハクモクレンが生えているところに、家を建てた経緯ではないのは、見ればわかる。家を新築し、玄関脇の小さな一角に、控えめに一本植えた。それがたまたま、ハクモクレンだったのだと思われる。家主の方が、思う以上によく根付き、すくすくと育って、電柱を越えるほどの高さになった、というところだろう。
 ハクモクレンは、二月に開花する。早春を告げる、春の花である。一枚のはなびらが手のひらほどもあり、それが両手を花の形にしたような型で、幾重にもなる。さらに、その大きな花が、枝いっぱいに咲く。真っ白く、分厚いはなびらは、重たげで、巨木の枝がしなるのではないかというほど、大量の花を付け、見事に咲き誇る。ハクモクレンの木は、花が咲く時には花だけで、葉は花が散った後に芽吹くから、花が満開の時は、遠目に見て、真っ白である。遠目に見ても、すぐわかるほど、花をたくさんつける。ただ、どの木もそうであるわけではない。油小路沿いに生える、ド根性ハクモクレンが、特別見事なのである。
 そして、散る。
 落葉かと思うほどの勢いで、どんどん、散って、歩道に降り積もる。一枚のはなびらが大きいから、二、三枚落ちているだけで、かなり目立つ。散り際はあっけなく、満開の日数は一週間も無い。朽ちるのも早いから、真っ白だったはなびらは、地面に落ちるころには先の方から茶色に染みができている。落ちたままにすれば、数日で歩道にこびりついてしまうだろう。
 私がすごいな、と思うのは、それをその家の人がマメに掃いて掃除している事である。とにかく木自体が大きいから、降ってくるはなびらの量も半端では無い。大通りに面して人通りも多いから、放っておくことはできない。春風が吹けば、あたり一面に散っていってしまう。それを、本当にマメに、朝昼晩と、始終掃いているのである。その時期に、そのハクモクレンの前を通ると、何袋もゴミ袋が置いてあるのに気が付く。中身はハクモクレンのはなびらである。こんなにゴミが出るものか、と驚く。
 そして、三月になるころ、私はハクモクレンの存在を忘れている。花が咲いて、散るのは二週間も無いから、たまに通りすがりに見るだけの私にとっては、あっという間である。はなびらの最後の一枚が片付けられるころには、頭の中から存在は消えてしまっている。ふと、見上げて、終わったか、と思う程度である。一月ごろから、いつ咲くか、まだ咲かないか、と心待ちにして、ついに二月に満開になるころには、その下を通るのを楽しみにし、そして散り際には、片付けが大変そうだな、と思い、三月には綺麗さっぱり忘れてしまうのである。
 そして、十一月になるころ、また思い出す。ハクモクレンは、落葉樹なのである。秋に全ての葉が落ちる。また、家の人が掃いて、掃いて、四六時中掃いて、掃除して、掃いて、とせいを出す姿を見かけるようになる。落葉の量は、はなびらの比では無い。ゴミ袋が山になって積み重なっているのを、よく見かける。一本の木から落ちるとは思えない、とてつもない量である。
 そして冬になり、春が来ると、丸坊主の幹に、たくさんの蕾がついて、やがてまた、真っ白な花が満開になる。そして散る、掃く。という訳である。ハクモクレンのある家の人は、春と秋、年に二度、ハクモクレンの為に掃除に駆り出されているのである。早朝から、夕方まで、日に何度も、歩道に散らかった、葉やはなびらを集める作業を繰り返している。
 私が思うのは、それでも切らないのだな、という事である。ハクモクレンを切ってしまえば、重労働は無くなるだろう。でも、それはしない。あそこまで大きくなるまでの間に、何度も切ろうかと思ったのではないだろうか。それでも、切らなかった。
 切らない、手間をかける、その選択をするほどに、ハクモクレンは魅力のある花なのである。
 私は、通りすがりに花を愛でるだけの存在だが、時折、ありがとうございます、と伝えたくなる。ハクモクレンの家の人に、ありがとうございます、と私は伝えたい。あの木があるおかげで、私は春の訪れを待ち、喜ぶことを楽しむことができる。ある冬の日、散歩の道すがら、ハクモクレンのほころびはじめた蕾を指差して、ほら、もうすぐ、と夫に振り向いたことがある。その瞬間、私は、私が思っていたより、ずっとこのハクモクレンが好きなのだと、気付かされた。ハクモクレンの花を見て欲しい、ハクモクレンの花を共有したい、そういう気持ちが、私の中に強く光っていた。
 ハクモクレンのはなびらを片付ける時、あのお宅の奥さんが、何を思っているのか、想像してみる。大変だな、と思う反面、誇らしくもあるのではないだろうか。京都の街中にあって、巨木を所有することは、とても難しい。それが出来たなら、ある意味、幸運だとも言える。一本の木がもたらす、四季折々の姿と共に、家を建てて以来、共に過ごすことが出来る、そんな生活は、恵まれているとも言える。いつまで、これを続けられるだろうか、と、そんな風にも考えているかもしれない。年老いれば、こまめに掃除をすることは難しいだろう。
 ハクモクレンの花を見上げながら、私は、はなびらを掃く人の健康を祈る。来年もまた、見られますように、と願いながら、はなびらを掃く人に感謝する。あの奥さんがいなければ、ハクモクレンは切られることになるだろう。あのはなびら、あの葉が、落ちるままにしておくことは、たぶんできないだろうから。
 機会があれば、と思いながら、まだ実現できていないことがある。お宅のハクモクレン素敵ですね、と一声、あの奥さんに伝えたい。余計な一言だろうか。悩みながら、きっかけがなくて、言えずじまいである。

さて、次のお話は…

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