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胡蝶蘭(花まくら より 012)

 おめでたい花、といえばなんだろうか。まずあげられるのは松竹梅の梅、そして桜あたりではないだろうか。おめでたい、という言葉に惑わされて、頭からすっぽ抜けがち、だがしかし、現実の出番の多さでは旬の限られる梅、桜など目ではない、三百六十五日、いつ、どこへでも、はい喜んで、と飛んで行ってくれる、それが胡蝶蘭である。
 胡蝶蘭は不思議な花である。
 まず第一に、出番が何故かパブリックである。プライベートで胡蝶蘭を贈り合う、というのはあまり聞かない。フォーマルかどうかに関わらず、胡蝶蘭というのは公共の用に出番のある花なのである。花持ちが良く、管理しやすいというだけであれば、家で胡蝶蘭を楽しむ人がもっとたくさんいても良さそうなものだが、あまり聞かないのである。
 一番多いのは、開店祝いだろうか。新しくオープンした店に行くと、縁故のある人から贈られたであろう胡蝶蘭が、ずらりと並んでいるのを目にすることがある。あの胡蝶蘭の鉢の多さが、新しく開いたお店の信頼度を表している、という一面もあると思う。一体どんなお店が開いたのだろう、と何も知らない側としては、店先に並ぶ胡蝶蘭が多ければ多いほど、豪華であればあるほど、期待度が高まるものである。あの胡蝶蘭には、新規の客を呼び込む、一度行ってみようかな、という気にさせる効果があると思うのだが、これって私だけだろうか?少なくとも、あのお店、ちょっと気になるなぁ、という気分を盛り上げる要素になっていると思うのだが。これも、もしかして私だけ?私は自分がミーハーだという自覚があるので、あまり自信がない。みんなが良いと言うものは、きっと良いんだろう、と思っているタイプの人間は、あの胡蝶蘭に引き寄せられる性質が強いかもしれない。こんなに胡蝶蘭が贈られてくるんだから、きっとちゃんとしたお店…なんて、そんな風に思ってしまいがちである。
 とはいえ、ちゃんとそれなりに根拠もある。根拠というか、単に自分がやったこととしての実例だが、懇意にしていたフレンチレストランが移転して新装開店する時に、私と夫の連名で開店祝いの胡蝶蘭を贈ったことがある。また行きます、応援しています、という気持ちを込めて贈った胡蝶蘭なので、それを見た通りがかりの人が、ちょっとでも心を惹かれて、このフレンチレストラン、美味しいのかも、と思ってくれたら私は嬉しい。
 せっかくなので、そのフレンチレストランの話をしたいと思う。
 そのレストランは、名前をラ・プレーヌ・リュヌと言って、今は京都の烏丸二条にお店を構えている。移転前の場所は綾小路高倉という、四条烏丸駅から徒歩五分の場所にあった。そしてなんと、夫はこのレストランの二階に住んでいた。というか、当時はまだ恋人だった夫の住んでいたマンションの一階に、フレンチレストランがあった。それが、ラ・プレーヌ・リュヌだった。お気楽な恋人時代は、昼近くまで寝ていて、お昼ご飯をぷらりと一階ですませる、とか、夕方ごろ、夜ご飯をどこにする?と言ってぷらりと一階ですませる、とかそういう贅沢が出来たのである。とはいえ、人気店だったので、満員になっていることもしばしば…。
 ラ・プレーヌ・リュヌで忘れられないのは、フォアグラのステーキである。私はフォアグラが大好きなのだ。記念日に、お任せコースを予約し、フォアグラを入れてください、とお願いして出て来たのが、フォアグラのステーキだった。外はバターでカリッとソテーされ、中はまったりととろける。火を通したぶどうが添えられていて、ソースは極甘口のワインを煮詰め、バルサミコ酢と合わせたもの。甘酸っぱく、とろりとフォアグラに絡みつく。酸味、甘み、そしてフォアグラの旨味が渾然一体となった絶品だった。
 また、デザートも非常に凝っていて良かったのが印象深い。記念日のディナーがバレンタインデーに近かったので、その夜のデザートはフォンダンショコラだった。これがケーキ屋さん顔負けの味で、とろりと濃厚で、香り高く、デザートにしては量が多かった!これはチョコレート好きの夫が大絶賛で、七年経った今でも、フォンダンショコラの話が出るたび、あれがもう一度食べたいなぁと繰り返している。よっぽどお気に召したらしい。
 移転後のお店は、厨房がカウンター越しに見えるお洒落なお店で、ワインセラーも完備し、ワイン通の人も納得の品揃えである。残念ながら、私たち夫婦は二人とも下戸なので、ワインを勧められる事があっても、もっぱらペリエ(炭酸水)である。ペリエは便利である。ワインが飲めなくても場を切り抜けられる、下戸の必須アイテムだ。ワインでは無いが、大抵のお店では、ワインクーラーに深緑色のガラスボトルを沈めてくれ、グラスが空けば、ウェイターが来てワインのような感覚で注いでくれる。お飲み物は?とおきまりの質問を向けられた時、水で、と答えるのは、私はなんとなく決まり悪く感じる。別に水なら水で良いのだが、胸を張って水で、と答えるのに、居心地の悪さを感じてしまう。かと言って、オレンジジュース、というのも料理に合わない気がするし、なんでも好きなものを飲めばいいのだが、私は下戸は下戸でも、持病の薬を飲んでいての酒が飲めない、なので、本当のところはワインが飲みたいのである。そんんな元飲兵衛の心に寄り添ってくれる、それがペリエなのである。たぶん、本当に水が飲みたかったら、居心地の悪さなど感じないだろう。水をお願いします、と堂々と言えると思う。単に自分が、本当はワインが飲みたいんだけどな、という気持ちを屈折させているがゆえの、お水は嫌でござる症候群である。とはいえ、ペリエはペリエで水の代用品以上に、油っぽい料理に合うので、フレンチにはぴったりの、サッパリした飲み物である。
 他にはお茶、という選択肢もある。最近は良くしたもので、下戸には下戸なりの選択肢があってよかろうという商売人が、ガラス製のボトル入れた高級なお茶、緑茶だったり烏龍茶だったりするのだが、そういうものを作って、料理屋に卸しているのである。ブルーティー、なんていう名前で呼ばれていたりする。ブラックティー(紅茶)に対するネーミングだと思われる。こういうものを置いてあるお店では、あ、私はお茶でいいです、というのは要注意だ。うっかりすると無料じゃないお茶が出てくることになる。
 ジュースも、本当に最近は良くしたもので、ワインセラーを置いてあるような店でアルコールを断ると、ワインを絞るブドウと同じブドウを使った、ちょっと素敵なブドウジュース、というのを勧められることがある。私は以前この戦法にかかって、断りにくくなり、じゃあ、それ、お願いします、という風になってしまい、頼んだことがある。結論から言うと、正直言って、やめて置いた方が良い。ブドウジュースの甘みで、料理の味がわからなくなるからだ。個人的にはフランス料理と、フルーツジュースは合わないと思う。
 長々とフレンチレストランの話になってしまったが、胡蝶蘭の話に戻る。私がラ・プレーヌ・リュヌに贈った胡蝶蘭は、一本立の鉢だった。胡蝶蘭の中では、最も控えめな大きさである。胡蝶蘭は鉢から何本茎が出ているかを何本立て、という風に表す。そしてその一本一本に、五つから十五ほどの花が付いている。店先で見かけるものは、三本立てのそれぞれに十輪ずつ花が付いているものが多いだろうか、一万円くらいの相場である。キリが良く、贈答用としてそれが相場なのだろう。この値付けの感覚も胡蝶蘭は独特で面白いと思う。植物というより、工芸品のような感覚である。商品の一覧を見ていると、何本立て、何輪、いくら、という風に羅列されており、カッチリと型が決まっている様子である。 きっと、胡蝶蘭の生産農家は、匠が技をふるうように、完璧に管理して育てているのだろう。注文に応じて作っていたら間に合わないから、さながらクローンのような胡蝶蘭が温室にずらりと並んでいるのではないだろうか。想像してみると、なんとなくSFっぽい光景でもある。胡蝶蘭は不思議な花である。


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