藤(花まくら より 004)
なんでも、藤の花は酒飲みなんだそうである。
藤の花を、酒に付けておくと、どんどん吸い上げて、それで切り花の花もちが良くなるんだそうな。初めて聞いた時、変わったやり方もあるものだ、と思った。花をアルコールにつけたら、瞬く間に萎れてしまいそうではないか。どんな花にも通用するやり方ではなさそうだが、藤の花には、それが良いらしい。
そんな藤の花の特性を由来にしたバーがある。
名前はそのものずばり「ウィステリア(Wisteria)」英語で藤の花、である。バーのマスターの名前が藤原さんで、そこから取ったそうである。彼と出会ったのはオリオンズという銀座のバーだった。私はかねてから、銀座にあるセント・サワイ・オリオンズというバーに興味があって、東京に遊びに行った折にたずねたのだが、その当時のバーテンダーが藤原さんだった。まだウィステリアを開業する前のことである。最初、藤原さんがあまりに若いので、私は驚いた。オリオンズは古いバーで、オーセンティックな落ち着いたムードのバーだ。藤原さんに年齢を聞くと、二十七歳ということだった。当時の私も二十七歳、同い年ということで、気が合った。
私の当初のお目当ては、ミスターKという名前のカクテルだ。オリオンズのオリジナルカクテルで、店名にあるサワイさんというバーテンダーが、息子さんのために創作されたんだとか。ミスターKとは、息子さんのことらしい。カクテルのベースはヘネシー・ウィスキー。そこにガリアーノ(バニラのリキュール)と生クリーム。上にココアパウダーでKを描いて出来上がり。まったりとしたデザートカクテルである。私はレモンハートという漫画を読んで、このミスターKを知った。レモンハートはお酒のうんちくが詰まった漫画で、酒飲みなら一度は手に取ったことがある漫画だと思う。そこで私もかじった知識を頭に、いざ、銀座に乗り込んだわけなのだ。
その時、行ったのは、銀座サンボアとオリオンズの二軒。サンボアは、京都の祇園に本店のあるお店。祇園のお店には、何度か行ったことがあったので、銀座はどんなものだろう、と興味があって、たずねてみた。
祇園のサンボアは、オーセンティックながら、初心者にも優しい、どちらかと言えば旅行者向けでもある、気軽なお店。京都祇園にあって、一見さんお断り、ということもなく、入りやすいお店である。マスターは飄々とした雰囲気の細身の男性で、とにかくどんなオーダーも受けてくれる。懐の深いありがたいマスターである。クリスマスに訪れた時、エッグノックを頼んだのだが、嫌な顔一つせず、さっと隣接した料亭の厨房に卵を取りに行って、作ってくれたことがある。
そんな訳で、じゃあ銀座はどんなものだろう、と思った次第である。結論から言うと、全然雰囲気の違うバーだった。ハイボールが名物だというので、ハイボールを頼んだのだが、これが変わっている、と噂に聞いた通り、氷無しがスタイル、ノーステア。飲んだ感想は、う〜ん、これが銀座サンボアぁ〜…というもので、一人で腰を据えて構えるにはあまり向いていない。周りをみれば、気の合う仲間で来ている人が多く、一人できている人はストイックにハイボールをあおっている。のんびりしている人はあまりいない雰囲気。全体的にハードボイルド。祇園サンボアの、のほほんとした雰囲気とはまるで違う。私は早々に退散して、オリオンズへ向かった。
オリオンズには、私の他に、年配のグループが一組。十五人くらいで、ピアノの生演奏に合わせてカラオケを楽しんでおられた。なんでも、小学校の同窓会だそうな。楽しそうだなぁ、いいなぁ、と思いながら、私はカウンターから遠巻きに、その様子を眺めていた。その時、流れて来たのが、美空ひばりの愛燦燦。私はこの曲の歌詞を真面目に聞いたのは初めてだったのだけれど、あまりに心に染み入りすぎて、泣いてしまった。カウンター越しに、藤原さんが、オロオロとしていて、申し訳なかった。
愛燦燦の歌詞で、泣けてしまったのは「わずかばかりの運の悪さを恨んだりして、人は哀しい哀しいものですね」というところ。実は当時私は離婚したばかりで、情けないやら悔しいやら、行き場のない憤りを抱えていた。銀座で遊んでいたのは、その鬱憤ばらしでもあったのだが、この愛燦燦で、完全にやられてしまった。
藤原さんは後に、この時のことを振り返って、失恋かと思った。と言っていた。まぁ、何かに破れたところは同じでも、離婚と失恋じゃ全然、全然違う。腹が立ったが、訳ありげな女性がカウンターで泣いていてもそっとしておいてくれる、これがバーの良いところである。
で、藤原さんなのだが、色々と話を聞くうちに、近々店を辞めて、自分の店を出すと言う。それに藤の花、ウィステリアという名前をつけるのだと、聞かせてくれた。私はそれを聞いて、じゃあ私は、開店祝いに花を送るわ、絶対連絡してよ、と言って、連絡先を交換した。そして宣言通り、三回めにお店に行った時、彼はいなかった。
だが、一筋縄ではいかないのが、夜の商売の怖いところで、藤原さんはお店のお客さんに出資してもらって、店を出す予定だと言っていたのだが、オリオンズを辞めた途端に、そのお客さんからの連絡が途絶えてしまったという。私は藤原さんから店を出す話はダメになったと連絡を受け、そんなのって無いよ、と憤慨したのだが、それを聞いて、仕方ないね、とオリオンズのママさんは言った。藤原さんが辞めると言った時から、薄々わかっていたそうである。バツが悪かったのか、藤原さんからママさんへは、出店がダメになった件について、特に連絡はなかったそうだ。夢見酒だもの。罪ないわ、バーテンダーなら、その辺りも、わかっておかなくちゃ。夢見酒って、いうのが、あるのよね、ママさんはそう言って、首を振って笑った。夢見酒、そう、それは夢だったのだ。お酒が入って、夢を見る。夢を語る。若い藤原さんの夢、お客さんの夢。曖昧模糊とした銀座の夜、現実と夢の境界線のない、お酒の上でのお話。そうだったのか、と私は藤原さんの嬉しそうな顔を思い出しながら、オリオンズのローストビーフをほおばった。
その話はそれでおしまいだったのだが、ある時、そういえばどうなったかな、とネットで藤原さんの名前を検索したら、ぽこん、と、ウィステリアが見つかった。間違いなく、藤原さんがマスターをする、バー・ウィステリアだった。藤原さんはお客さんに逃げられた後、自力で自分のお店を立ち上げることができたようだった。近ければ直接行っても良いのだが、気軽に遊びに行ける距離では無い場所だった。だから、私は約束通り、ウィステリアに花を贈った。開店祝いには遅すぎるけれど、約束を果たさないと、キリが悪いような気がした。
贈った花は、もちろん藤の花だ。藤の花の鉢植えを贈った。
その後、彼からの連絡は、特に無い。私も、別に、わざわざウィステリアに足を運ぼうとは思わない。
これはたぶん、銀座で見た夢の続きにすぎないのだろう。
さて、次のお話は…
前のお話は…
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