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牡丹(花まくら より 025)

「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」
 とは、美しい女性の姿を花に例えた言葉である。この内、芍薬と牡丹は、とてもよく似た花である。大まかに言えば、芍薬は草で、牡丹は木である。葉っぱも違っていて、芍薬の葉は細長く艶があり、牡丹の葉は先が三つに分かれていて艶がない。
 一見すると同じように見える芍薬と牡丹、分類学的にもボタン科ボタン属で近しい品種、しかし、詳細にその様子を観察してみれば、大きな違いがあることに気づく。私はこの二つの植物を、双子の姉妹に例えることにした。そして、まったく性質の異なる、百合の花を、血縁のない、別の女の子として例えた。
 それが、このエッセイ集の表紙に載っている写真に写る、桐製の箱の絵である。
 この箱を作ってくれたのは、箱藤という、京都中京区にある桐製品の専門店店で、卵型の箱が、このお店の看板商品になっている。これはへその緒入れ、だ。箱の中央部分に切れ目があって、そっと上下に引くと、箱を開ける事ができる。箱の中は縦五センチ、横三センチほどの空間になっていて、赤ちゃんのへその緒を綿か懐紙に包んで、しまっておくことができる。芍薬、牡丹、百合、の三つが描かれた絵は、私が特別にオーダーして作ってもらったもので、価格は一つ一万円ほど。同じものを三つ作った。
 へその緒の持ち主は、私の友人が産んだ双子の女の子たちと、私の娘である。
 この友人というのは、中学校から、もう二十年来の付き合いがある人で、大学では心理学を専攻しており、私が困った時、辛い事があった時、耳を傾けてくれる、心強い女性である。また、彼女のお母さんが良い方で、家庭環境に問題のあった私にも関わらず、親切に接してくれて、友人の家に遊びに行ったり、泊まらせてもらったりした時には、暖かく迎えてくれた。気さくな方で、私の事をあまり子供扱いせず、色々と話をしてくれた。思い返すと、友人は元より、友人のお母さんにも恩があって、続いているご縁かもしれない。
 近年、友人から悩みを抱えていると相談を受けた時、私はあまり上手に相談に乗れなかった、ということがあった。私自身は、あんなにも友人に優しく、懇切丁寧に話を聞いてもらい、愚痴でしかないことにも耳を貸してもらったのに、私は友人の話を聞いて、説教めいたことを言ってしまった。それが理由で、友人の人生は思いがけない方向に転び、私はそれを良くなかった、と後悔している。しかし、予定外の事が起こったとはいえ、友人の人生が大きく悪い方へ向かったということではない。なんだかまどろっこしい話が続くが、私のアドバイスは、私が想定していた方向とは違う結果を招き、しかし友人は健在である。でも、友人の悩みは解決しないまま、今に至る…。おそらく、友人にとっては、一生の悩みになると思う。
 私は、彼女に、なんと声をかければ良いのか、ずっと頭を悩ませている。あれほどお世話になってきた彼女に、気の利いたことすら言えない自分が、不甲斐ない。時たま、調子はどう?と連絡を取り、あれこれ近況をやりとりする。もし、彼女から愚痴めいた言葉がこぼれれば、私は耳を傾け、そして、もう、私は彼女の悩みを解決するためにはどうしたら良い、なんてことは言わない。ただ、その言葉を受け止めて、彼女がそうしているように、その悩みに寄り添って、大変だね、と声をかける。その毒にも薬にもならない、ぼんやりとした慰めを、私は歯がゆく思うのだが、それ以上のことなど、私がしてはいけないのだと思う。一度はそれで、彼女の人生をかき乱す結果を出してしまったのだから、私は、ただ、彼女に、寄り添うことしか、できないなと思う。
 悲しいかな、私は彼女の抱える悩みとは性質的に無縁の人間で、こと、この問題において共感できる部分がほとんど無い。だからこそ、説教めいたことすら、一度は言ってしまったのだ…。自分の事は脇に置き、彼女の立場にだけ立って考えてあげられなかったことを、とても反省している。もちろん、良かれと思って、私なりに親身になって答えたつもりだし、真剣に考えたからこそ、出たアドバイスだったのだが。世の中には、解決できない、抱え続けていかなくてはいけない問題というものが、あるものだなと、今は思う。
 フランスのことわざに「地獄への道は善意で舗装されている」というものがある。私がやったことは、まさにそれだった。友人に相談をされ、よかれと思って、と言った事が、結果的に予定外の結果を招いた。善意を出す時には、それが相手を地獄へ導く道の舗装ではないかと、疑ってかかる必要があるのかもしれない。友人のお母さんが言っていた言葉を、時々、思い出す。
「苦労というのは、誰にでもあるもの。でも、どこで苦労するかは、その人次第」
 この言葉を、もっと早くに思い出していれば、友人の相談にも、もっとうまく乗れたかもしれないなぁ、と私は悔やんでいる。余計なアドバイスなど、しないで済んだのではないだろうか。
 彼女と、一番仲が良かったころのことを、思い出してみる。中学校のころは、毎日友人と顔を合わせ、学校でも、休みの日でも、しょっちゅう、しょっちゅう、おしゃべりをしていた。高校になり、別々の学校へ行くと、自然と交流は減り、そして私が京都に引っ越すと、ほとんど会う事はなくなった。ごくたまに帰省した時には、友人と、そして友人のお母さんに、手土産を持って挨拶に行った。彼女のご実家は農家をされていて、あれこれと自宅用に野菜を栽培しておられた。私が挨拶に行くと、抱えきれないほど大きな白菜や、大根、そして夏には西瓜を持たせてくれた。それは、銀玉西瓜と友人のお母さんが呼ぶ、珍しい黄色い西瓜だった。友人のお母さんは、赤と黄色の西瓜を比べると、黄色の方が味が好みなんだそうである。
 三十路近くになったころには、私が先に子供を産み、バタバタと子育てに追われて疎遠になっていった。私が子供を生みそだていてた、その二年の間に、友人はいつの間にか恋人を作り、結婚間近になっていた。あれ、この前恋人ができたと聞いたばっかりだった気がしたのだけれど?と思っている間に、あれよあれよと彼女は入籍し、そして妊娠した。しかも、双子だった。同時期、私も二人目を妊娠した。
 私は一人目を帝王切開で産んでいるから、二人目も帝王切開で、と早い時期に医師に宣告されていた。友人は双子だから、安全のために帝王切開が決まっていた。手術日は、一週間違いで、友人が先に産み、私が後に続いた。
 偶然なのだが、友人の子供達の名前は、赤と青の色にちなんだ名前で、私の子供は紫色にちなんだ名前だった。赤と青、そして紫色。しめし合わせた訳ではないのに、こうなるなんて、つくづく、友人とは縁があるな、と思った。
 出産祝いは、何がいいかな、と私は早い段階で色々と考えていた。京都駅ナカにある伊勢丹を見て回ったり、四条通りの大丸、髙島屋をはしごして見て回ったりした。その中で、私の目を引いたのが、箱藤の桐製の卵箱だった。へその緒入れとして、展示されていたそれは、一つ一つにそれぞれ干支の絵が絵付けされており、いかにも京都らしい、雅やかなものだった。干支の絵も、悪くなかったのだが、私たちの子供は申年だったから、女の子に猿の絵のものを贈るのも華が無いかな、と思って、干支はやめた。それで、色々考えて、「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」という言葉から着想を得て、そっくりの花を咲かせる芍薬と牡丹を友人の双子の娘たちに、百合の花を私の娘になぞらえ、特別注文をすることにしたのである。
 特注の箱の作成には、三ヶ月の期間を要した。
 私たちは無事に出産を終え、新生児の育児に精を出した。特に友人は双子だったから、その大変さときたら、壮絶という感じだったようである。
 私は出来上がった箱を、友人に郵送で送った。会って渡したかったが、新生児を抱えて、京都・愛知間を移動するとなると、次に会えるのは、いつになるか、全然、検討もつかなかったからである。
 友人からも、可愛らしい写真立てが贈られてきた。
 その後、私たちは子育てに忙しく、滅多に会えない時期が二年、三年、と続いた。その間、本当にごく時たま、連絡を取り合う程度だったのに、会って話せば、ちょっとびっくりしてしまうほど、昔通りに会話が弾む。この先もずっと、たぶん、死ぬまで、彼女とは友達だと思う。ご縁というのは、あるものである。

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