見出し画像

菜の花(花まくら より 021)

 寒さもゆるみ、ダウンコートの前を開けるころ、スーパーマーケットの店頭に、菜の花は並ぶ。京都はまだまだ春というには気が早いが、熊本、福岡などの九州地方から、ほころびかけた菜の花の蕾が運ばれてくる。菜の花は黄緑色の蕾から、わずかに黄色の花びらをのぞかせる、春のさきがけである。私が買う菜の花は、十四、五本が束になって、くるりと薄紙で巻いて、輪ゴムで留めてあるもので、長さは十二センチほどだろうか、家族四人の副菜にちょうどいい量である。私は買い物かごに菜の花を入れる。もやし、バナナ、豆腐、など、年がら年中変わらぬ、季節を感じさせない物の中にあって、旬の菜の花の存在は、明るく照らす春の日差しにも似た、暖かさがある。
 家に帰って、私は早速菜の花を調理する。大抵は、芥子和えにする。菜の花の根元を少し切り落とし、全体をざっと水洗いする。菜の花の穂先だけなので、泥汚れは特にない。ただ、ちょっとホコリを払う程度である。続いて、鍋に湯をたっぷりと沸かす。そこに、塩を一さじ。菜の花を入れて、ちょいちょい、と菜箸でつついて、全体が湯に浸かるように塩梅してやる。時間は一分ほどだろうか、グラグラに沸いた湯が、菜の花を入れたことで冷めて、また沸騰し始めるくらい、の間である。茹で上がった菜の花を、流し台に置いたザルに上げる。もうもうと立った湯気に、菜の花の香りが移っている。青っぽく、少し苦味がある、春野菜の香りである。私は茹でた菜の花を水には付けない。なんとなく、水っぽくなるような気がするのである。まだ熱い茹で立ての菜の花を、重ならないようにザルに広げる。一本、塩茹でしただけの菜の花をつまんで、食べてみる。ほっこりとした食感と、苦味、甘味、塩味、良い茹で加減である。粗熱が取れるのを待つ間に、ボウルに調味料を合わせておく。醤油に、和がらしを溶いて、出汁で少し伸ばす。指先でちょいと舐めれば、ヒリッと辛い。そこに、ざく切りにした菜の花を入れ、ザッとかき混ぜれば、菜の花の芥子和えの出来上がりだ。
 その他には、菜の花とベーコンのパスタ、菜の花の芥子酢味噌和え、というところだろうか。あまりレパートリーの数は無い。菜の花は、食卓に並んで春の訪れを感じるためのもの、と思っているので、旬の間に二度か三度買えば、私は十分である。二週間ほどの旬の間中、毎日菜の花料理を作る、ということは無い。せいぜい、二、三回。夕飯時、食卓を囲む家族の内で、もうそんな時期ね、という会話が弾むことが、それが菜の花の一番の味付けである。
 話は変わって、菜の花を見る、ということについて考えてみると、私はそれについて忘れられないことがある。子供の頃、読んだ本の一節がとても印象深く、私の心に残っている。それは、菜の花畠に…で始まる、有名な童謡「おぼろ月夜」についての一節である。
「菜の花畠に 入り日薄れ
 見わたす山の端 霞ふかし」
 この歌は、夕暮れ時の菜の花畑を描写している。私が読んだ本では、この歌が色彩的に優れている、と書かれていた。つまり、菜の花の黄色、夕暮れ時の茜色、せまる夕闇の紫、山の緑、それらが霞がかって渾然一体となっている風景、という訳である。私はその解釈に、非常に感銘を受けた。この短いフレーズの中に、重層的な色の広がりを感じられる人がいるのか、と感動したのである。それまで私にとって「おぼろ月夜」は、歌詞よりも曲の方が心惹かれる歌だった。落ち着いていて、切なげで、春なのにどこか心細いような、夕暮れ時をうまく表現した旋律だなぁ、と、歌詞よりも曲の方に関心を寄せていた。それが、あの一節を読んで、一気に歌詞に着目することになった。詩というものにあまり興味がなかった私が、詩の読み方に一歩踏み込んだ瞬間だったかもしれない。
 公園を散歩していて、菜の花が植わっていると、頭の中で「おぼろ月夜」の一節がリフレインする。春風にふかれて、そよいでいる満開の菜の花は、なんの気負いも感じさせぬ軽やかさである。大抵の場合、満開の菜の花の周りには、モンシロチョウが飛んでいて、上がっては落ち、上がっては落ち、と無作為な軌道を空に描いている。春の日差し、まっすぐ伸びた黄緑色の茎と葉に、小さな黄色い花、白い蝶、童話の中の光景、そのままである。
 ベンチがある。座ってみる。私が見る菜の花の光景は、後ろに架線がかかっている。特急、鈍行、新幹線。ジェイアールも私鉄も、京都駅に向かう列車は、みんなここを通る。ベンチに腰かけて見ていると、色んな色、色んな形をした列車が通っていく。青いの、小豆色の、緑色の、中に人をたくさん詰め込んだの、スカスカなの、フカフカなクッションを並べた、豪華な指定席も。時々、貨物列車も通る。積み木のような、鋼鉄の四角い箱が、だだん、だだん、と規則正しく音を立てながら、ずらずらずらずら目の前を横切っていく。なんて長いんだろう、と私は途中から驚きをもって見つめるようになる。最後の箱が通り過ぎて、ハッと目が覚めたような気分になる。菜の花が揺れている。白昼夢のような、ひとときである。
 京都駅を通過する列車はほとんどないから、どの列車も減速しながら、ゆっくり走る。信号待ちをして、停車しているのもある。ぼんやり見つめていると、中に乗っている人が、どこかへ行くのとは対照的に、どこへも行かない自分が、際立って感じられるような気がしてくる。あそこにいる人は、どこかへ行く人。私は、座っている限り、どこへも行かない人。このまま、地面に足がくっついて、ベンチに、お尻がくっついて、溶けて、混ざって、もう、どこへも行けなくなってしまう。どこへも、行く理由など、無くなりそうである。家に帰る理由も、ここを立ち去る理由も。永遠に菜の花の咲く季節が続くような気分になる。永遠に、モンシロチョウが舞い続けるのではないかと、思えてくる。
 それでも、遠慮容赦なく時間はすぎていき、いつまでも電車と、そして菜の花を見ている訳にはいかない、と、ふいに正気に戻る。そして立ち上がり、私は家に帰る。菜の花は、いつの間にか花盛りを終え、チューリップか何かに出番をゆずる。
 ところで、一体、菜の花というのは、何の花なのだろうか?
 菜の花、菜の花、と呼んでいるが、よくよく考えてみれば、妙な名前である。花と名前につく植物は、紫陽花(アジサイ)、など他にもあるが、アジサイが固有名詞であるのと比較して、菜の花の「菜」というのは、なんとも曖昧ではないだろうか。野菜の菜、である。花の雰囲気からして、なんとなく、キャベツや白菜の仲間なのだろうな、という想像は付くが、私たちは、一体、何の花を食べているのだろうか。そして、あの花にばかり着目して、全体像を知らないのではないだろうか。
 気になったので、調べて見た。菜の花、とは、やはり特定の植物の名前ではなく、アブラナ科の植物の花茎全般を指して、そう呼ぶものらしい。スーパーマーケットにならぶ菜の花も、実は様々な品種があるのだとか…。意識していなかったが、改めて知ってみると、納得である。
 次にスーパーマーケットで、菜の花と出会うのが、少し楽しみになった。


次のお話は…


一つ前のお話は…




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?